←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県浜松市

光明城(高明城)

 
2013年12月31日

光明城(高明城)
光明城は「遠江国風土記伝」等によると、享禄年間(1528〜1532)に、朝比奈時茂が築城し、又太郎泰方が継いで在城したとあるが、はっきりしたことは分からない。
但し、元亀年間(1570〜1573)に武田氏の属城として城番が置かれていたことは確かである。その頃のことと思うが、朝比奈又太郎が光明城にいて、犬居城主天野宮内右衛門景貫と戦ったことが「改正三河記」に出ている。
天正3(1575)年6月、徳川家康は、家臣本多忠勝、榊原康政らに命じて光明城を攻略させた。この時、赤豆坂、梯子坂等で激戦があった(浜松御在城記)というが、落城後は二俣城主大久保忠世の手に預けられ、その家臣が天正10年頃まで在番した。
光明城は標高539mの光明山の山頂付近に構築された山城で、現在も一部に腰曲輪、掘切らしき遺構を見る。しかし近世になって発展した光明寺のためにかつての城郭の遺構はほとんど改変を受けるか破壊されるかして、往時の明確な遺構があまり残っていない。尚、周辺には只来城をはじめ、笹岡古城、二俣城、鳥羽山城、高岡城、小川砦、横山砦、犬居城等の城砦群が濃密度に分布し、これら諸城の中にあって、最高所の光明山に占地し、秋葉街道という交通の要衝を抑えた光明城の戦略的位置は極めて高く評価できる。関連地名として横川地内に、殿カイト、的場、鍛冶屋カイト、門前等が残る。
(静岡県文化財保存協会:静岡県の中世城館跡より)

五人塚



2005年02月12日

光明城(高明城)
光明城は「遠江国風土記伝」等によると、享禄年間(1528〜1532)に、朝比奈時茂が築城し、又太郎泰方が継いで在城したとあるが、はっきりしたことは分からない。
但し、元亀年間(1570〜1573)に武田氏の属城として城番が置かれていたことは確かである。その頃のことと思うが、朝比奈又太郎が光明城にいて、犬居城主天野宮内右衛門景貫と戦ったことが「改正三河記」に出ている。
天正3(1575)年6月、徳川家康は、家臣本多忠勝、榊原康政らに命じて光明城を攻略させた。この時、赤豆坂、梯子坂等で激戦があった(浜松御在城記)というが、落城後は二俣城主大久保忠世の手に預けられ、その家臣が天正10年頃まで在番した。
光明城は標高539mの光明山の山頂付近に構築された山城で、現在も一部に腰曲輪、掘切らしき遺構を見る。しかし近世になって発展した光明寺のためにかつての城郭の遺構はほとんど改変を受けるか破壊されるかして、往時の明確な遺構があまり残っていない。尚、周辺には只来城をはじめ、笹岡古城、二俣城、鳥羽山城、高岡城、小川砦、横山砦、犬居城等の城砦群が濃密度に分布し、これら諸城の中にあって、最高所の光明山に占地し、秋葉街道という交通の要衝を抑えた光明城の戦略的位置は極めて高く評価できる。関連地名として横川地内に、殿カイト、的場、鍛冶屋カイト、門前等が残る。
(静岡県文化財保存協会:静岡県の中世城館跡より)

内山真龍資料館で只来城の場所を聞いていたときに、天竜市内には他に光明山遺跡というものがあって、昔お城があったといわれているという話を聞き、寄ることにしました。現在の石垣跡は光明寺のもので、光明寺が火災にあって以降はそのまま石垣だけ残っているとのこと。現在の光明寺は市役所の近くにありました。お寺の人は昔光明山に城があったということを否定しているようで確かに現地の看板には平安時代から寺があったようなことが書かれていました。少なくとも現在残されている立派な石垣は城跡ではなくて光明寺跡のものであることは間違いないようです。
甲陽軍鑑品第五十一にも、天正元(1573)年9月に武田勝頼は遠州に出陣して見附まで攻め込み、二俣、乾(犬居)、光明、あまかた(天方)、只来すじの各城及び、徳川方の掛川城を見回ったとされています。

遺跡の森
「遺跡の森」には、光明寺跡を中心として、五人塚や井戸跡などの史跡が数多く残されています。春にはサクラが咲き、秋にはモミジの紅葉と一年を通じて寺跡を演出し、この森の散策に色を添えます。富士山から浜名湖まで見渡せる景観と森林浴を楽しみながら、往時をしのぶことができます。
(看板資料より)


古井戸


光明山からの眺望は見事でした。石垣の上には展望台と望遠鏡も設置されていて、説明の通り本当に浜名湖から遠州灘、そして反対方向には富士山まで見渡すことができました。いつもは霞んでしまうらしく今日は珍しくきれいな景色になったのだそうです。只来からの景色も良かったですがその只来城あたりも見渡すことができました。
浜名湖の手前には天竜市が見えましたが、二俣付近はちょうど盆地になっている様子が良く分かりました。


徳川家康腰掛石

地元では、徳川家康が武田信玄との戦で敗れて逃げ帰ってきて腰掛けた石といわれているそうである。どこで戦って負けてきたのか分かりませんがこんな山の上にもこのようなものがありました。遠州には似たような話があちこちにありますね。


五人塚

光明山遺跡から少し奥に歩いて行くと五人塚というものがあります。遊歩道のところに、下の写真のような白く朽ち果てた看板があり、
五人塚
徳川の旗頭、本多作次郎、石川善内、澁谷三右門、菅沼源太郎、山本庄介、天正3年6月10日戦死と書かれていました。
天正3年5、長篠合戦の後に二俣城攻防戦が始まるが、6月に徳川軍によって光明城が攻略されたときに戦死した5人の塚と思われます。


二俣城
只来城
犬居城

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→