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愛知県豊川市

大聖寺

2004年12月11日

今川義元公墓所 市指定史跡
戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄3(1560)年5月19日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬ってとりあえず石の手水鉢をのせ墓石の代りにしました。それが「義元の胴塚」と言われる由来です。
嫡子上総介氏真は永禄6(1563)年、父義元の三回忌をこの寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵しました。
その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行われています。
(看板資料より)

今川義元公墓所

昨晩は東名高速の三方原PAで車中泊したので早い時間に現地に到着しました。牛久保の町中で大聖寺の場所を聞いたらみなさん丁寧に教えてくれたので場所はすぐに分かりました。カーナビに登録されている「今川義元の墓」とは少し違う場所でした。
お寺の入口の門には、旧一色城址・今川義元公御廟所と書かれていました。今日はいい天気だったのでちょうど朝日が差し込んできましたが、お墓は奥まったところにあって木も邪魔をしていたので少し薄暗かったです。
時間が早かったせいかお寺の人とは会うことはできず残念でした。


一色刑部の墓

室町時代足利の一族一色刑部少輔時家の墓である。永享11年宝飯郡長山村に築城して一色城と称した。此処の窪地に大牛が横臥せしていた因縁により牛頭山大聖寺を城廓内に建て牛頭天王を祀った。文明9年時家は豪臣波多野全慶に殺され、16年後には全慶も亦牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる。永正2年古伯吉田城を築いて豊橋へ出て次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした。之より牛窪城と改まる。
(看板資料より)

 

 
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