山上城 |
2015年07月19日 |
山上城は山上五郎高綱によって築城され、戦国時代末期に武田勝頼に攻められ廃城となりました。丘城として遺構がよく残されており、本丸・二の丸・三の丸跡が公園として整備され、花の名所としても知られます。 |
山上城は田原藤太といわれた藤原秀郷の流れをくむ、足利成行から2代目五郎高綱によって築城されたといわれます。高綱の子、高光は源頼朝に仕えました。その子孫も代々この地域を領し、上杉氏が関東管領の頃は東上州のなかでも、特に重きをなしたと伝えられます。しかし、北条・武田・上杉などの群雄が割拠した、戦国時代動乱のなかで、やがて16世紀末ころに廃城になりました。城の構造は、並郭構造といわれるように、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでいます。なお、南郭には物見台の跡が残っています。南北は650m、東西は220mの細長い形をしており、平坦な郭構造ではなく、高い郭を持つことから丘城ともいわれています。城下町の名残として、元町・鍛冶屋などの地名が残っています。 |
山上城は、鎌倉時代に藤原秀郷の子孫、山上五郎高綱によって築城され、戦国時代末期に武田勝頼に攻められたのち廃城となりました。この城跡は群馬県の指定史跡となっています。城の構造は並郭構造で、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでおり、川や谷などの自然を要害とした丘城と言われています。城下町の名残として元町・鍛冶屋などの地名が残っています。 |
本丸
勝頼は天正8年8月29日、来る5日に上州へ出馬すると工藤銀七郎等に連絡したが、実際の出馬は9月20日になった。 天正8年08月 勝頼、東上野に侵攻し、北条方の膳城ほかの諸城を攻落する。 |
二の丸
三の丸
2005年05月05日 |
山上城は田原藤太といわれた藤原秀郷の流れをくむ、足利成行から2代目五郎高綱によって築城されたといわれます。高綱の子、高光は源頼朝に仕えました。その子孫も代々この地域を領し、上杉氏が関東管領の頃は東上州のなかでも、特に重きをなしたと伝えられます。しかし、北条・武田・上杉などの群雄が割拠した、戦国時代動乱のなかで、やがて16世紀末ころに廃城になりました。城の構造は、並郭構造といわれるように、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでいます。なお、南郭には物見台の跡が残っています。南北は650m、東西は220mの細長い形をしており、平坦な郭構造ではなく、高い郭を持つことから丘城ともいわれています。城下町の名残として、元町・鍛冶屋などの地名が残っています。 |
山上城跡第1号井戸
山上城跡公園整備の発掘調査により発見された第1号井戸は、地山のロームを直接掘り込んで構築されている。断面形態がラッパ状に上が開く、地山井筒朝顔型をとり、深さ8m、口径4m、底径1mの規模をを有する。埋土状況は地山の黄色ロームが多量に混入しており、人為的に埋められているものと推定される。出土遺物に五輪塔や石臼、カワラケ皿等があり、掘削埋土の時期判定の根拠となると考えられる。埋土状況で、水中堆積物と思われる砂質を検出していないが、山上城のほぼ中軸線上に位置し、規模も一般的な井戸に比して大きいことから、重要的な役割を果した可能性もある。 |
山上城は山上五郎高綱によって築城され、戦国時代末期に武田勝頼に攻められ廃城となりました。丘城として遺構がよく残されており、本丸・二の丸・三の丸跡が公園として整備され、花の名所としても知られます。 |
山上城跡は城址公園としてきれいに整備されていました。駐車場には伝習館という建物もありました。事前に新里村役場を訪れ、伝習館に山上城のことについて書かれた資料があるかもしれないと聞いていたので伝習館のなかに入ってみましたが誰もいませんでした。しかし山上城について書かれた紙のパンフレットがあり、自由に持ち帰って良いとのことでしたので1枚もらってきました。 |