←前のページ トップページ↑ 次のページ→

群馬県前橋市

大胡城

2015年07月19日

城跡は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670メートル、東西最大幅310メートルの規模を測り、桝形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っている。
城主は、大胡氏および牧野氏であった。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である。天正18(1590)年徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡藩2万石に封ぜられその居城となった。元和2(1616)年に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛延2(1749)年、姫路へ転封し廃城となった。
(看板資料より)

大胡城本丸

勝頼は天正8年8月29日、来る5日に上州へ出馬すると工藤銀七郎等に連絡したが、実際の出馬は9月20日になった。
10月3日、武田家は鑁阿寺(足利市)や足利学校に禁制を出した。
武田軍は新田金山城(太田市)を攻め、小泉(大泉町)、館林(館林市)・新田領を焼き払い、8日までに膳城(前橋市)を攻略した。その後北条氏政が武蔵本庄に着陣すると、勝頼は利根川を渡ったが、敵が退いたので甲斐に戻った。
(武田勝頼 笹本正治著より)

天正8年08月 勝頼、東上野に侵攻し、北条方の膳城ほかの諸城を攻落する。
天正8年10月3日 勝頼、足利の鑁阿寺に禁制を与える。
(武田勝頼 柴辻俊六著より)

大胡城本丸 北側の土塁

本丸周囲の空掘

本丸と周囲の空掘

本丸を囲むように配置されている二の丸

桝形門

水の手門



2005年05月05日

城跡は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670メートル、東西最大幅310メートルの規模を測り、桝形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っている。
城主は、大胡氏および牧野氏であった。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である。天正18(1590)年徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡藩2万石に封ぜられその居城となった。元和2(1616)年に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛延2(1749)年、姫路へ転封し廃城となった。
(看板資料より)

大胡城本丸

土塁

大胡城は、天正8(1580)年の武田勝頼による東上州攻略の際に、山上城や膳城などともに落とされました。現在は本丸周辺が城跡として残されていますが、その周辺は断崖絶壁で、本丸の土塁に登ってみると思わず足がすくんでしまうほどでした。

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→