石倉城は文明17(1485)年上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。応仁の乱が終わって8年後(1477)のことである。当時の利根川の本流は現在の広瀬川周辺より左岸側に幅広く流れていた。橘山の麓より利根川の水を久留馬川という小流を利して城の堀に引き入れたという。
山内・扇谷両上杉氏が相争い、その間隙を突いて北條早雲が関東進出を企て、いよいよ戦国時代の様相を帯びてきた。一方、総社長尾氏と白井長尾氏が対立し、箕輪の長野氏が台頭してきた。長尾憲景は永正9(1512)年新井城の戦いで戦死。三男長景が城主となった。その後、享禄・天文・弘治年間(1528〜1557)にわたる数回の大洪水によって本流が久留馬川に移り、現在の利根川になった。
永禄6(1563)年、武田信玄の西上野への進攻に際し、長景は厩橋城の守りについたが、留守を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、興左衛門の兄弟を置いた。永禄8(1565)年、越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還し、荒井甚六郎を城代として守らせた。石倉城は関東の要衝であるため、永禄9(1566)年7月、再度信玄に攻め取られ、武田の武将で保渡田城主の内藤修理亮政豊及び外記親子が兼務帯した。その後、内藤政豊は長篠の合戦で討死し、外記は厩橋城代北条丹後守高広に降り、北条の臣である寺尾左馬助(石倉治部)が守った。
この間80有余年にわたり幾多の攻防と凄惨な流血の歴史を繰り返し、天正18(1590)年5月、徳川勢の進攻に対し寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。攻めるは松平修理大夫、松平新六郎が千余騎で攻めまくった。左馬助を始め城兵は死力を尽くして戦ったが、武運つたなく今はこれまでと城に火を放ち、左馬助を始め残る城兵ことごとく城炎と共に相い果て、ついに落城の運命となった。
この様に幾万の将兵が死闘を尽くして戦った城池も、戦国の世と共にまぼろしの彼方に消え去り、今はただ「石倉」という地名を残すのみとなった。よって後の世にその名をとどめ伝えべく、石倉城の記とした。
(石碑の説明文章より) |