←前のページ トップページ↑ 次のページ→

群馬県前橋市

前橋城(厩橋城)

2005年04月30日

前橋城碑の解説
前橋は古くは厩橋といった。東山道の群馬の駅が近く、それが地名の起りであろうという。厩橋城が築かれたのは15世紀末頃で、初代城主は箕輪城主長野氏の一族長野左衛門尉方業(法号固山宗賢)と推定されている。以降長尾氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文21(1552)年小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄3(1560)年には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の目標とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防が繰り返された。
天正10(1582)年武田勝頼が敗死すると、織田信長の部将滝川一益が厩橋城に入って関東管領を称したが、信長の急死によって本国へ帰り、城は北条氏の手中に帰した。ついで天正18(1590)年4月、小田原征討軍の浅野長政らに攻められて落城した。同年8月に関東に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城3万3千石に封じた。親吉は治政11年をへて、慶長6(1601)年甲府に移り、代って川越から酒井重忠が入封、以降9代150年の間、酒井氏の藩政が続いた。4代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。酒井氏時代の前橋城は城域15万坪余に及び、西に利根川の断崖を背とし、東南にのびる丘上に郭と濠をめぐらしていた。本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。5代忠挙の時、城下は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延2(1749)年忠恭の時、姫路に転封となった。代って姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以来難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和4(1767)年川越へ移城した。以降、前橋城は廃され、8万石に近い城付領は約百年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることになった。この間、主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の藩主直克の決断により、文久3(1863)年12月、幕府から再築の許可を得、慶応3(1867)年3月竣工して帰城が実現した。この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。しかし、わずか半年で大政奉還となった。廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、そのため前橋の街は今日の繁栄をみている。碑文は、藩主松平直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。この城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当る。碑の題額は、直克の長子松平直之氏、撰文は、修史局編修官、のち東京大学教授、貴族院議員になった重野安繹氏である。書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮である。
(看板資料より)

前橋城跡の碑


再築前橋城の概要
再築前橋城は、文久3(1863)年着工後、3年8ヶ月かかって慶応3(1867)年3月完成した。城の縄張りは、旧前橋城三ノ曲輪の本丸とした渦郭式(渦巻き状に曲輪が続く様式)で、城郭総坪数は旧前橋城に匹敵した。城を取り巻く土塁の要所要所に砲台が設けられるなど近代的な城郭であったが、完成を急ぐあまり城門や建物は簡素なものであった。しかし城は城郭としての機能を果さないまま明治維新を迎え、本丸御殿(後の群馬県庁舎)を残して取壊された。現在、本丸跡が群馬県庁となっているが、現存する城の遺構は少ない。
(看板資料より)

前橋城は現在は群馬県庁及び群馬県警察本部になっていました。前橋城跡の碑は県警本部の裏の土塁の上にあり、写真のように土塁に登れるようになっていました。土塁はちょうど県警本部を取り囲むように配置されていて県警本部の正面に立っていた人に許可をもらってから周りを一周してみました。
上杉謙信の関東攻略の拠点となったところで、信玄の時代には武田軍も攻略することができなかった城ですが、勝頼の代になってから御舘の乱の結果、東上州は上杉氏から武田方に譲られることになり、当時北条方だった北条高広が武田勝頼に降伏する形で武田方の城となりました。
北条との同盟を破棄して上杉との同盟を結んだ結果得られた上州の地でしたが、その結果北条、徳川を敵にまわしたことによって急速に滅亡への道を歩み始めたのです。

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→