金山城 |
2015年07月19日 |
史跡金山城跡 金山城の歴史 勝頼は天正8年8月29日、来る5日に上州へ出馬すると工藤銀七郎等に連絡したが、実際の出馬は9月20日になった。 天正8年08月 勝頼、東上野に侵攻し、北条方の膳城ほかの諸城を攻落する。 |
旧通路
西矢倉台西堀切内の通路を隠すように盛られた土塁状の高まりの下からは、通路の縁石と思われる石列が見つかりました。この石列により西矢倉台西堀切内の通路よりも古い時期に桟道から真っ直ぐ西へ進む通路があったと考え、発掘調査によって通路を確認しました。 |
西矢倉台西堀切
西矢倉台西堀切は、西域から実城(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他と異なり、堀底に石を敷いて通路として利用しており、通路の先には桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いています。また通路の北側には柱穴(柱を支えるために掘られた穴)があり、敵兵の北側からの侵入を防ぐための柵があったと考えられます。 |
西矢倉台西堀切
西矢倉台通路
馬場下通路
物見台
物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されています。また、物見台基壇からは、釘や火縄銃の弾丸が出土しています。 |
馬場通路・石塁
物見台から東の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見されました。この石塁は北の長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられます。更に長手口から北側の岩盤を険しく見せるための視覚効果を意識して、この石塁の上に築地塀が造られていたと考えられます。しかし調査では上部の崩落が著しく塀の痕跡は発見されませんでした。 |
馬場曲輪
物見台から、東に向かう通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へと至ります。 |
月ノ池
発掘調査前の月ノ池は、汚泥が堆積する窪地状の池でしたが、調査の結果、月ノ池も日ノ池と同様に上下二段の石垣で囲まれた戦国時代の池だったことが明らかになりました。 |
大堀切
敵兵が尾根づたいに進攻してくるのを防ぐために造られた堀切は、山城にとって一般的な防御施設です。特にこの大堀切は、金山城の中でも最も主要な防御拠点である大手虎口の目前にあるため、長さ46m、堀幅約15m、深さ約15mと大規模に造られています。 |
大手虎口
虎口は、城や城内の各曲輪への出入口部を指し、「小口」とも書かれます。敵の侵攻から城を守る重要な場所であり、門・柵・塀・土塁・石垣などで厳重に守られています。また一方、虎口の「構え」は、「格の高さ」を示す空間ともなっています。 |
大手虎口南上段曲輪
大手虎口南上段曲輪からは、石敷きされた建物の基礎やカマド、井戸跡が見つかりました。大手虎口を守った兵たちの、生活のにおいが感じられる曲輪です。 |
日ノ池
日ノ池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣や、二ヶ所の石組み井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷きの下からは日ノ池へ通じる通路跡や改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。これらの調査の結果をもとに、往時の姿を可能な限り再現しています。石垣や石敷きはできる限り当時のままで残しました。 |
史跡金山城跡
今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純が文明元(1469)年に築城したものが基礎となっています。その後、下剋上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12(1584)年小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。 |
本城 天主曲輪 |
金山の大ケヤキ
ケヤキは、落葉高木で東アジアの一部と日本に分布します。日本では本州・四国・九州に分布、暖地では丘陵部〜山地、寒冷地では平地まで自生し、高さ20〜25mの大木となります。 |
馬場下曲輪
馬場下通路の南下に立地する馬場下曲輪は、発掘調査の結果、岩盤を刳り貫いた建物の柱穴が見つかりました。また、竪堀に沿って石垣でできた土塁が延びていることが分かりました。現在整備した土塁は、石垣が崩れた状態を表現しています。この曲輪からは地鎮などのまじないに使われたと思われる輪宝墨書土器や、鍛冶工房で使ったと考えられるフイゴの羽口などが見つかりました。 |
見附塹壕
見附出丸・南土塁
見附出丸は、金山城の西側を守る最前線としての性格が考えられる場所です。北土塁と筋違いに位置する南土塁は、発掘調査の結果、北土塁ののように石垣ではなく、厚く堆積した砂層の上に土を叩き締めながら作られていることがわかりました。そして北脇には「排水」を意識していたと考えられる拳大の凝灰岩が見られました。
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