←前のページ トップページ↑ 次のページ→

群馬県太田市

金山城

2015年07月19日

史跡金山城跡
太田市のシンボルである金山に築かれた金山城は、文明元(1469)年から天正18(1590)年まで「難攻不落」を誇った名城です。昭和9(1934)年に県内で初めて城跡として国の史跡指定を受けました。
平成6(1994)年からスタートした史跡金山城跡環境整備事業では、発掘調査結果に基づいて、敵を惑わす複雑な「通路形態」の復元を目指した整備を行っています。復元された戦国時代の通路を歩きながら、当時の山城の状況に思いをはせてみてください。また通路周辺で発見された、中世における関東の山城では極めて珍しい「石垣」の復元整備も行っています。
平成13(2001)年には、物見台から日ノ池までの1.4haの範囲における第1期整備事業が完成しました。天守閣のある城とは違う雰囲気を持つ「石垣の山城」金山城跡を、どうぞゆっくりご覧下さい。
(看板資料より)

金山城の歴史
平安末期、新田氏によって築かれ、新田義貞一族の滅亡と共に廃城となる。
約百年の後、文明元年に新田家純が再建した。享禄岩塩、新田昌純は、重臣横瀬泰繁のために殺された。
泰繁の子、成繁あ姓を「由良」と改め両毛地方を征服し、金山城全盛時代をもたらした。天正12年北条氏に金山城を攻撃され、籠城半年、ついに和睦開城、由良氏は桐生城に引退、北条氏より城代が派遣された。
天正18年北条氏滅亡により廃城となる。


勝頼は天正8年8月29日、来る5日に上州へ出馬すると工藤銀七郎等に連絡したが、実際の出馬は9月20日になった。
10月3日、武田家は鑁阿寺(足利市)や足利学校に禁制を出した。
武田軍は新田金山城(太田市)を攻め、小泉(大泉町)、館林(館林市)・新田領を焼き払い、8日までに膳城(前橋市)を攻略した。その後北条氏政が武蔵本庄に着陣すると、勝頼は利根川を渡ったが、敵が退いたので甲斐に戻った。
(武田勝頼 笹本正治著より)

天正8年08月 勝頼、東上野に侵攻し、北条方の膳城ほかの諸城を攻落する。
天正8年10月3日 勝頼、足利の鑁阿寺に禁制を与える。
(武田勝頼 柴辻俊六著より)


旧通路

西矢倉台西堀切内の通路を隠すように盛られた土塁状の高まりの下からは、通路の縁石と思われる石列が見つかりました。この石列により西矢倉台西堀切内の通路よりも古い時期に桟道から真っ直ぐ西へ進む通路があったと考え、発掘調査によって通路を確認しました。
この通路は、岩盤に丸太をかけて造られた桟道とは異なり、地山を削り出して通路を造っていたことが分かりました。
桟道は、急斜面で岩盤が張り出しているため岩盤を加工して通路を造り、岩盤の張り出していないこの部分では、地山を削り出して通路を造っています。このように当時の地形を利用して通路を造った様子がうかがえます。
(看板資料より)


西矢倉台西堀切

西矢倉台西堀切は、西域から実城(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他と異なり、堀底に石を敷いて通路として利用しており、通路の先には桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いています。また通路の北側には柱穴(柱を支えるために掘られた穴)があり、敵兵の北側からの侵入を防ぐための柵があったと考えられます。
堀切の西脇には、堀切を掘り下げる際に出た土や石を土塁状に盛り上げ、堀切内を敵兵から「隠す」ための工夫がなされていたようです。また、この土塁状の高まりの下から通路の縁石が見つかり、堀切内の通路よりも古い通路があったことが分かりました。古い時期には、桟道から西へ通路が延びていたようです。
(看板資料より)

西矢倉台西堀切



西矢倉台通路


馬場下通路


物見台

物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されています。また、物見台基壇からは、釘や火縄銃の弾丸が出土しています。
この物見台からは、金山城の周囲が良く見渡せるため、敵(上杉謙信:天正2年)は、物見台から死角となる藤阿久へ陣を構えました。
(看板資料より)


馬場通路・石塁

物見台から東の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見されました。この石塁は北の長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられます。更に長手口から北側の岩盤を険しく見せるための視覚効果を意識して、この石塁の上に築地塀が造られていたと考えられます。しかし調査では上部の崩落が著しく塀の痕跡は発見されませんでした。
物見台から東の南側斜面際では、石敷きだれた通路が発見されました。この通路は物見台と東側に位置する馬場曲輪を結ぶと共に、途中で南下にある馬場下通路へと分岐しています。
(看板資料より)


馬場曲輪

物見台から、東に向かう通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へと至ります。
馬場曲輪の調査では、岩盤を刳り貫いた柱穴が240個以上見つかり、位置関係から建物や柵列があったことが分かりました。また建物は少なくと5回の建て替え、曲輪の生活面は3回の造成があり、頻繁に造り替えを行っていたことも明らかになりました。
廃城時期の馬場曲輪における、建物3棟のうち両側の2棟は平面表示としました。また中央の1棟は柱穴の位置を利用して、新たに四阿を建てました。その他曲輪の中央部分に石組み排水路、曲輪全体を囲む柵列の存在も明らかとなり、あわせて整備しました。
(看板資料より)


月ノ池

発掘調査前の月ノ池は、汚泥が堆積する窪地状の池でしたが、調査の結果、月ノ池も日ノ池と同様に上下二段の石垣で囲まれた戦国時代の池だったことが明らかになりました。
下段の石垣は、石敷き平坦面から約2m下に積まれており、その内側からからは加工された建築部材や石垣の石が多量に投げ込まれた状況が見つかりました。なお、この石垣については、最上部以外に、戦国時代の石垣をそのまま残して整備しました。
月ノ池の底は、粘度層になっており、谷斜面からの表流水や浸透水が溜まるようになっていたことが分かりました。また、月ノ池は、池の石垣が一段しかなかった時代があったことも分かりました。月ノ池は谷地形を利用して造られているため、一段の石垣だけでは集中豪雨時に水があふれたと考えられます。そのため、水があふれないように、かつ水をより多く蓄えられるように、池の中心を東に移動させ上下二段の石垣に改修したものと考えられます。
(看板資料より)


大堀切

敵兵が尾根づたいに進攻してくるのを防ぐために造られた堀切は、山城にとって一般的な防御施設です。特にこの大堀切は、金山城の中でも最も主要な防御拠点である大手虎口の目前にあるため、長さ46m、堀幅約15m、深さ約15mと大規模に造られています。
発掘調査の結果、この大堀切は尾根を形成している岩盤を深く掘り下げ、堀底は平らに削られていることが分かりました。また、掘底は長さ約7m、高さ約1.5m、幅1.8mの石積みでできた畝状の防御施設が1ヶ所見つかりました。掘底が平らになっていることで、敵兵の侵入経路にならぬよう、障害物として造られたものであると考えられます。
(看板資料より)


大手虎口

虎口は、城や城内の各曲輪への出入口部を指し、「小口」とも書かれます。敵の侵攻から城を守る重要な場所であり、門・柵・塀・土塁・石垣などで厳重に守られています。また一方、虎口の「構え」は、「格の高さ」を示す空間ともなっています。
金山城跡にも数多くの虎口がありますが、なかでもこの大手虎口は、一大防御拠点として、また「城の格」を示す象徴的な場所として、最も重要な虎口と言えます。大手虎口は谷地形を利用して築かれ、月ノ池脇から正面土塁までの大規模な「構え」となっていました。月ノ池脇の門から続く緩やかに曲げた大手通路、それを守るため見下ろすように両側に配した壇状の曲輪とそこを守り場とした兵達の各種建物、大手通路の行く手をふさぐよう築かれた正面土塁、横矢を射るために築かれた壇状の土塁などがありました。このような大規模で複雑な虎口の構造は、全国的にも特徴的であり、「難攻不落」を誇った金山城を象徴する場所の一つと言えましょう。
また、通路脇や曲輪内を走る石組み水路は、城の維持のために効果的に排水を行う往時の工夫であったと考えられます。
(看板資料より)


大手虎口南上段曲輪

大手虎口南上段曲輪からは、石敷きされた建物の基礎やカマド、井戸跡が見つかりました。大手虎口を守った兵たちの、生活のにおいが感じられる曲輪です。
建物は、基礎が石敷きされており、この石敷き基礎には、幅約25〜30cmの溝が碁盤の目のように見られました。これは建物の柱や床板を支えるための「大曳き」や「根太木」などを置く溝で、建物の基礎が石敷きされているのは湿気を防ぐためだったと考えられます。建物の東脇からはカマドが見つかり、建物から火気を遠ざけていたと思われます。このことから建物は火薬などを備蓄した「武器庫」を兼ねた「兵の詰め所」だったと考えられています。整備では石敷きされた基礎の一部が見学できるように「遺構展示施設」として建物を造りました。
井戸跡には一辺約1.5m、深さ約3mで石組みされていました。石組みの下部には、マツ材でできた井戸枠がそのまま残っています。
また、大手虎口南上段曲輪の石敷き建物跡の西脇は、古い時期に通路であったことも分かりました。この古い時期の通路は、スロープ状に北から南へ上がっていました。しかし、最終的には埋め戻され、通路開口部は石垣によってふさがれていました。
(看板資料より)


日ノ池

日ノ池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣や、二ヶ所の石組み井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷きの下からは日ノ池へ通じる通路跡や改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。これらの調査の結果をもとに、往時の姿を可能な限り再現しています。石垣や石敷きはできる限り当時のままで残しました。
日ノ池は、山の上では希な大池であり、金山城における象徴的な場所の一つです。ここは単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。
また水の信仰とかかわる平安時代の遺物も発見されており、日ノ池が立地する場所は築城以前から神聖な場所であったようです。
(看板資料より)


史跡金山城跡

今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純が文明元(1469)年に築城したものが基礎となっています。その後、下剋上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12(1584)年小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。
天正18年、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。江戸時代には金山「御林」として徳川直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を残す結果となっています。
昭和9(1934)年には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が良好なことから、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けました。廃城後約400年を経過し、遺構の多くが樹木や竹・下草で覆われ、城の面影は失われてしまいましたが、調査の結果大規模かつ複雑な虎口形態を持っていたことや、更に曲輪斜面の石垣、石敷通路や土塁石垣など随所に石を多用している山城であったことが明らかとなって来ました。往時(中世末)における関東の山城としては、極めて珍しい「石垣の城」という様相が明らかとなりつつあります。
太田市では、この貴重な文化遺産を護り、難攻不落の堅固な金山城の姿を可能な限り再現し、市民の「憩いの場」「歴史学習の場」として広く活用されることを願っております。
(看板資料より)

本城
金山城の中枢で、水ノ手郭を中心として約1万坪ある。実城とも言い城主の御殿があった所なので城主を実城殿とも呼んだ。
御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。主要郭は六ヶ所、腰郭は三ヶ所、武者造り、堀切りは壕内道を兼ねている。
本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。
(看板資料より)

天主曲輪
本城最高位の郭で、戦前本丸と言われたところである。西北の角には、金山城最大の石垣が使用されており、角矢倉形式の大建造物があった。この郭は金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。このため、水ノ手郭の貯水池は「神水」と呼ばれていた。
廃城後は、新田義貞を祀る新田祠という小さな石宮があった。構造上の特徴としては、東北の角を削って「ひづみ」を作り、「鬼門除」がある。
(看板資料より)


金山の大ケヤキ

ケヤキは、落葉高木で東アジアの一部と日本に分布します。日本では本州・四国・九州に分布、暖地では丘陵部〜山地、寒冷地では平地まで自生し、高さ20〜25mの大木となります。
本樹木は金山山頂にある、樹高17m、目通り周6.79mの大ケヤキです。樹高はそれほど高くはありませんが、目通り周においては県内でも上位に位置し、枝張りも40mを越えます。金山山頂の金山城実城域にあり、推定樹齢800年ほどとも伝えられる大木で、金山のシンボル的存在です。樹勢が良好で、まとまった幹を持っており樹形も大変趣があります。また神社の参道脇にあることから御神木と同様の扱いを受けていたと思われます。
昭和初期までケヤキの大木は7本あったといわれていますが、現在は1本のみです。推定樹齢800年ほどであるとすれば、金山城の興亡を見てきた歴史の証人ともいえます。
(看板資料より)


馬場下曲輪

馬場下通路の南下に立地する馬場下曲輪は、発掘調査の結果、岩盤を刳り貫いた建物の柱穴が見つかりました。また、竪堀に沿って石垣でできた土塁が延びていることが分かりました。現在整備した土塁は、石垣が崩れた状態を表現しています。この曲輪からは地鎮などのまじないに使われたと思われる輪宝墨書土器や、鍛冶工房で使ったと考えられるフイゴの羽口などが見つかりました。
(看板資料より)


見附塹壕


見附出丸・南土塁

見附出丸は、金山城の西側を守る最前線としての性格が考えられる場所です。北土塁と筋違いに位置する南土塁は、発掘調査の結果、北土塁ののように石垣ではなく、厚く堆積した砂層の上に土を叩き締めながら作られていることがわかりました。そして北脇には「排水」を意識していたと考えられる拳大の凝灰岩が見られました。
また土塁の上面からは柱穴列が見つかりました。この柱穴列により、柵があった可能性が考えられます。
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→