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群馬県前橋市

蒼海城

2012年12月24日

本丸

染谷川とその支流牛池沢との間に縦横の堀を配した城で、総社長尾氏の本拠である。この城の縦横列郭構造は、築城以前に既設の構えのあったことを暗示し、幻の上野国府を戦国城郭に編成したのがこの城ではあるまいか。上野国分寺、国分尼寺、山王廃寺跡、上野国総社などが付近に集中するこのあたりに国府があり、上野守護代であった長尾氏が国府跡を本拠とすることに無理があろうか。平将門が上野国府を襲った時の染谷川古戦場もここにある。
しかし旧地形に拘束された不合理な城は、景行の子忠房さえ放棄して石倉に築城し、諏訪氏も入場せず、秋元氏も植野に新城を築いたのである。石倉城(古)が利根川に崩落したのちの総社長尾氏はまた蒼海城に住み、関東管領上杉顕定は、総社の長尾忠景に兄景信の山内上杉家宰職を継がせた。それが文明8(1476)年、長尾景春(景信の子)の叛逆を招いたのである。文明18年10月、蕘恵がここに忠景の子顕忠を訪うている。忠景の孫顕方も上野守護代であったが、当時勃興してきた北条氏綱に通じた。大永4(1524)年頃のことであろう。そのためか、顕方の跡を継いだ顕景は、箕輪城主長野信業と厩橋城主長野方業(信業の弟)に挟撃されて苦しみ、越後の長尾為景に救いを求めたが、ついには長野氏に屈服したらしく、長野業政のはからいで総社の景房(憲景)が白井の城主を継いでいる。以降、総社長尾氏はまったく衰え、永禄9(1566)年、蒼海城も武田信玄に攻略される。
本丸は北に寄り、川には堰止めを設けた。氾濫は本丸西側に及んで沼状となり、蒼海の名を生んだ。
(日本城郭大系より)

蒼海城の本丸は御霊神社の近くにあることを事前に確認してから、御霊神社を目指しました。御霊神社にはたどり着けたのですが、本丸の位置が良く分からず、近所の方に確認してみたところ、この周辺の大家さんである方のお宅で本丸の位置を教えてもらうことができました。
高くなっている部分に雑草が生えていて登ることはできませんでした。

総社神社

 
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