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山形県米沢市

上杉家廟所


2005年08月06日

上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公を中央にしてその両側に12代までの藩主の廟が並んでいます。廟は2代から8代までは社造りで、材質もケヤキを用い、柱は丸柱となっています。9代から12代までの廟は10代藩主鷹山公の考案による宝形造りで、材質もスギやヒノキを用い、柱は角柱と簡素になり、藩の財政事情がうかがわれます。
謙信公の遺骸は、甲冑をつけ甕に納められ、越後春日山(現新潟県上越市)から会津(現福島県会津若松市)を経て米沢城へ移され、明治9年に現在の場所に移葬されました。昭和59年1月「米沢藩主上杉家墓所」として国指定史跡となりました。
(看板資料より)

上杉家歴代の廟所で、米沢市民は敬意をこめ「御霊屋(おたまや)」と呼んでいる。慶長6(1601)年上杉景勝公の移封に伴い、謙信公の尊骸は会津若松城から米沢城本丸に造営した祠堂に遷され安置された。
元和9(1624)年3月20日、景勝公逝去の折、当地を廟所と定め、御廟将を置き警護の任にあたらせた。以来、12代斉定公までの上杉家当主がこの地に葬られている。
明治6(1873)年米沢城は解体され、同9年城内に安置されていた謙信公の尊骸は、当廟中央に移葬された。境内は東西110メートル、南北180メートルで、樹齢400年を越す老杉があり、静寂を極めている。こうした形態の廟所が残っているのは全国でも珍しく昭和59年国の重要文化財に指定された。
(看板資料より)

上杉謙信の墓

受付の人の話によれば、上杉謙信が越後春日山城で死んだとき、高野山に墓を作って林泉寺に分骨したのだそうです。その後、会津若松を経て米沢に移封したために上杉謙信の墓も米沢城内に移設したとのこと。これとは別に二代目景勝公以降はこの廟所に祭られていたが、明治時代になってから神式によるものに変わったとのこと。建物は神式ですが、焼香も置いてあって仏式と神式が混在したものになっていました。


中央が上杉謙信公、左側に二代目景勝公、左側に三代目定勝公と、左右交互に祭られていました。中央の上杉謙信公のものは明治になってからのものなので、ここで一番古いものは左側の二代目景勝公になるそうです。
話によれば、上杉家の後に越後に来た堀秀治が上杉家に関わる墓や寺などを米沢に移動させて欲しいとのことで上杉家はいわば故郷を追い出されてしまったとのことでした。


上杉謙信・景勝霊屋(高野山)
林泉寺(上越市)
林泉寺(米沢市)
上杉神社

 

 
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