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山形県米沢市

上杉神社


2005年08月06日

上杉神社は、米沢城本丸跡地で米沢市内のちょうど中央付近に位置しています。敷地内には上杉謙信公に像や、移設された上杉謙信公の墓があった場所である上杉謙信公祀堂(御堂)跡、伊達政宗誕生之地の碑などがありました。この日は朝6時半に到着しましたが、既に多くの人たちが掃除をしていました。歩いていてちょうど武田信玄に対する武田神社のようなところかなと思いました。
周辺には、上杉記念館や上杉博物館などもありますので是非立ち寄ってみてください。


史跡 上杉謙信公祀堂(御堂)跡

江戸時代、上杉謙信公の霊骸を安置した御堂(祠堂)のあった場所である。上杉謙信は天正6(1578)年3月13日、越後春日山城内で逝去、49年間の生涯を閉じた。同15日、大乗寺良海を導師とし荘厳に葬儀が営まれ、謙信の遺骸は甲冑を着せ、甕に納め、密閉して葬った。
慶長3(1598)年、謙信を継いだ上杉景勝が越後から会津120万石に転封されると、謙信の遺骸は会津若松城に鄭重に移された。さらに、同6年、景勝が米沢30万石に減封されるのに伴い、遺骸は米沢城内に移された。
慶長17年、この地、本丸東南隅の堤上に御堂を新築し、中央正面に謙信の遺骸を安置し、その左右に善光寺如来と泥足毘沙門天像を奉置した。その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所であった。厳重な掟が定められ、二の丸に置かれた法音寺、大乗寺などの真言宗寺院21ヶ寺が交代で奉仕した。また、謙信の命日には歴代藩主が参拝し、第9代藩主治憲(鷹山)が三日間の断食をして降雨を祈願した所でもある。明治4年の廃藩に際し、仏式の祭礼を止め、謙信、鷹山の2柱を祀り、上杉神社と称し、神祭を行う。同9年には謙信の遺骸を歴代藩主の眠る御廟所(歴代藩主上杉家墓所)に移した。
故に、神聖な御堂のあった場所、特に遺骸の安置した霊所を記念し、柵をめぐらし記念碑を建て現在に至る。
(看板資料より)


上杉謙信公

戦国末期、群雄割拠の中にあって「越後の虎」と怖れられた文武兼備の名将である。大儒者藤原惺窩は、戦国の世に学問を好んだ武将5人の筆頭に謙信の名をあげている。謙信は享禄3(1530)年1月21日、越後守護代長尾為景の次男(一説に三男)として越後春日山城に生まれた。幼名は虎千代、元服して平三景虎と称した。7歳のとき春日山林泉寺に預けられ、名僧天室の教えを受ける。真剣の生涯を貫く深い信仰心はこのとき培われたものであろう。天文12年、14歳の景虎は兄晴景の命によって林泉寺を離れ、越後平定に助力する。晴景に代わって長尾家を継ぎ、春日山城主となったのは19歳の冬であった。以来戦いにあけくれる日々を送る。攻めれば必ずこれに勝ったが、侵略のために兵を動かすことは絶えてなく、すべてが義のための戦いであった。
戦国災最大の激戦と称される永禄4(1561)年の川中島合戦は、武田信玄との一騎打ちで広く知られるが、これも信玄に侵略された信濃諸国のを助けるための義戦であり、謙信が戦術家としての天賦の才を遺憾なく発揮した一戦であった。この年、関東管領上杉憲政の養子に迎えられ、上杉政虎と改名して管領職を引継ぎ、同年冬、将軍足利義輝の一字を賜って輝虎と改める。謙信と称するのは41歳の元亀元年からである。
謙信は毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の一字を用いた。出陣に際しては神仏の加護を願った。生涯女性を近づけなかったのも信仰上の信念によるものであろう。
謙信は詩歌、連歌の道にも堪能で、書は近衛流の名手と称された。天正5年七尾城外で詠んだ「9月13夜」はいまも人々に親しまれている。
天正6(1578)年3月9日、関東平定の出陣を前にして病で倒れ、同13日突然として逝った。享年49。遺体は甲冑を着て甕に納められ、上杉家廟所の中央に眠る。
(石碑文章より)


上杉神社御由緒
御祭神 上杉謙信公
天正6(1578)年3月13日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に49才で急逝された時、その遺骸を城中不識庵に仏式を以って鎮祭されたのであるが、二代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修し爾来260年に及んだ。明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同9年には新たに神殿成り初めて遷座祭を行なう。明治35年、往時の勤皇の功により別格官幣社に列せられたが(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。
大正8年米沢市の大火後、同12年米沢出身建築界の泰斗伊藤忠太博士の設計により現在の神殿を始め一切を竣成したのである。境内は旧米沢城本丸跡で例祭は4月29日(歿年3月13日を太陽暦に換算)。
(看板資料より)


春日神社

春日神社の由来
今から1040年程前越後の国司として派遣されていた藤原遠成が、上越の春日山頂に奈良の春日大社を分霊し領内の平和を祈りました。戦国時代の上杉家は代々春日社を守り神として敬い続け、藩主の移封と共に会津から米沢へと移ってまいりました。
その後、減封を続けた上杉家は藩の財政が苦しく、再建を願った十代鷹山公の春日社への誓詞奉納は有名な事実です。
明治5年に現在地へ移った春日神社は、大正8年の米沢大火により上杉神社と共に類焼し、松岬神社に合祀されましたが、昭和56年市民の浄財により再建され今日に至りました。
(看板資料より)


稽照殿

宝物殿の御案内
御祭神上杉謙信公の遺品を主として2代目景勝公、直江兼続公、中興の名君鷹山公の遺品遺墨等がほとんどで、平安より江戸期に亘る絵画、書跡、刀剣、甲冑、武具、仏器、県文化財などを含む収蔵品は優秀な美術工芸品として或いは貴重な史料として往時を語り伝え、燦然たる光輝を放っている。
上杉神社再建に当りその宝物殿として創設されたもので神殿と調和を保つ日本風の外観をみせた重層建築である。名づけて稽照殿という。
(看板資料より)


伊達政宗誕生之地


上杉家廟所
林泉寺(米沢市)
林泉寺(上越市)
上杉謙信・景勝霊屋(高野山)
春日山城

 

 
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