将棋頭(白根将棋頭) |
2014年07月20日 |
御勅使川は、巨摩山地を水源として、甲府盆地に流下する急流河川で、山腹や渓岸を侵食し、大量の土砂を運び幾度となく氾濫を繰返し日本有数の大扇状地形を形成しました。戦国の時代天文10(1541)年甲斐の守護職となった武田信玄公は、度重なる洪水で困窮していた領民を救うため一大治水事業に着手しました。まず富士川(釜無川)の河道の安定化に着目し、それには富士川と御勅使川の合流処理が先決と考えました。当時御勅使川は扇状地を自由奔放に流れ、現在の信玄橋付近で富士川と合流していました。これを巨摩山地より扇状地に流れ出る白根町駒場付近において石堤「石積出し」を雁行状に何本も築いて流路を北東に向けました。さらにその下流白根町有野地先で圭角の石積の堤防を築いて激流を二分し水勢を弱めました。この分流堤の形が将棋の駒の頭部に似ていることから「将棋頭」と人々は呼び今日に言い伝えられています。二分された水流の一方は新河道を開削して主流としさらに下流の韮崎市竜岡町下条南割地先で将棋頭を築きここで分流し左支流の割羽沢川の合流を調整しました。一番目の将棋頭で分流された旧河道を前御勅使川と呼び、新しく開削された河道を後御勅使川又は本御勅使川と呼びました。現在の流路は本御勅使川を流れています。割羽沢川を合流した水流を富士川との合流点で「16個の巨石」を並べて高岩に打ちつけるようにしました。又一方前御勅使川を流下してきた水流を高岩からはね返る富士川に合流させ一層水勢を弱めました。 →石積出し(二番堤)
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2005年01月09日 |
御勅使川は、巨摩山地を水源として、甲府盆地に流下する急流河川で、山腹や渓岸を侵食し、大量の土砂を運び幾度となく氾濫を繰返し日本有数の大扇状地形を形成しました。戦国の時代天文10(1541)年甲斐の守護職となった武田信玄公は、度重なる洪水で困窮していた領民を救うため一大治水事業に着手しました。まず富士川(釜無川)の河道の安定化に着目し、それには富士川と御勅使川の合流処理が先決と考えました。当時御勅使川は扇状地を自由奔放に流れ、現在の信玄橋付近で富士川と合流していました。これを巨摩山地より扇状地に流れ出る白根町駒場付近において石堤「石積出し」を雁行状に何本も築いて流路を北東に向けました。さらにその下流白根町有野地先で圭角の石積の堤防を築いて激流を二分し水勢を弱めました。この分流堤の形が将棋の駒の頭部に似ていることから「将棋頭」と人々は呼び今日に言い伝えられています。二分された水流の一方は新河道を開削して主流としさらに下流の韮崎市竜岡町下条南割地先で将棋頭を築きここで分流し左支流の割羽沢川の合流を調整しました。一番目の将棋頭で分流された旧河道を前御勅使川と呼び、新しく開削された河道を後御勅使川又は本御勅使川と呼びました。現在の流路は本御勅使川を流れています。割羽沢川を合流した水流を富士川との合流点で「16個の巨石」を並べて高岩に打ちつけるようにしました。又一方前御勅使川を流下してきた水流を高岩からはね返る富士川に合流させ一層水勢を弱めました。 吉川弘文館の「武田信玄を歩く」という本に記載されている信玄堤関連の史跡の地図を頼りに将棋頭というところを探していたのですが、将棋頭というのは2つあることが分かりました。一つは御勅使川の南側(南アルプス市側)で、もう一つは北側(韮崎市側)でした。そのちょうど中間地点あたりにある御勅使南公園の駐車場に車を止めてあたりを探しましたが発見できず、御勅使南公園の管理棟におられた方に聞いて場所を教えてもらいました。それによると公園を出て国道52号線を南下してすぐに左折して御勅使川の上流に進み、右側にガソリンスタンドが出てきたらそこを右折して奥まで行ったところが南アルプス市側の将棋頭(白根将棋頭)でした。将棋頭の手前は公園になっていて子供が遊べるようになっていて説明看板もありました。その奥には想像以上に大きな将棋頭が整備されていました。 →石積出し(二番堤)
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