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山梨県甲斐市

信玄堤

2014年07月20日

聖牛

富士川は日本でも有名な急な流れの川です。このため大雨のときには、たびたび荒れ狂います。現在のようにコンクリートも機械も無い大昔に荒れ狂った川の洪水を防ぐ事は大変なことでした。
この「聖牛」は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本で有名な古い河川工法のひとつで、戦国時代のこの甲州が発祥の地といわれています。見てのとおり三角の形をしているので、上の部分が牛の角のように見えるためこのような名前がついたといわれています。
「聖」の意味ははっきりしませんが、現代風にいえばスーパーとかウルトラという意味だろうともいわれています。
聖牛は、大きさで「大聖牛」、「中聖牛」、「聖牛」の3つに分類され、ここに設置されているものは「中聖牛」の大きさのものです。
(看板資料より)

 



2005年01月09日

竜王用水
「信玄堤」のあるこの付近は甲府盆地を洪水から守る重要な地点ですが、竜王地区の田畑への用水を取るためにも重要な地点でした。
昔の人は、いろいろ苦心をして御勅使川と釜無川の洪水の流れを高岩にあてて洪水の勢いを弱めていました。また、高岩に川の流れを集めることは、普通の時に高岩地点で川の水を取りやすくなります。江戸時代の絵図では高岩の前に集まった釜無川の水をトンネルを開けて取り入れていることがわかります。
ここから取った川の水は竜王用水と呼ばれます。この竜王用水を守るためには地域の人々の大変な努力があり、信玄堤が築かれて以来、甲府盆地の竜王地区を潤す用水として、現在も大切な役割を果たしています。
(看板資料より)


聖牛

富士川は日本でも有名な急な流れの川です。このため大雨のときには、たびたび荒れ狂います。現在のようにコンクリートも機械も無い大昔に荒れ狂った川の洪水を防ぐ事は大変なことでした。
この「聖牛」は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本で有名な古い河川工法のひとつで、戦国時代のこの甲州が発祥の地といわれています。見てのとおり三角の形をしているので、上の部分が牛の角のように見えるためこのような名前がついたといわれています。
「聖」の意味ははっきりしませんが、現代風にいえばスーパーとかウルトラという意味だろうともいわれています。
聖牛は、大きさで「大聖牛」、「中聖牛」、「聖牛」の3つに分類され、ここに設置されているものは「中聖牛」の大きさのものです。
(看板資料より)


信玄堤と御勅使川・高岩
●甲府盆地を洪水から守る信玄堤
甲府盆地には東から笛吹川、西から釜無川・御勅使川が流れています。どちらの川も暴れ川です。東の暴れ川、笛吹川を押えるのは「万力林」。そして西の暴れ川である釜無川・御勅使川を押えるのがこの「信玄堤」です。
●信玄堤のはたらき
「信玄堤」は戦国時代に武田信玄の命によりつくられたといわれています。信玄堤は、この付近の堤防の名前ですが、この堤防だけでは釜無川や御勅使川の洪水を防ぐことはできません。下の図のようにいろいろな施設によって洪水の流れを調整しています。特に御勅使川の洪水の流れをたくみにコントロールしていることが大きな特徴です。
・御勅使川の流れを上流の「石積出し」で北側へはねます。
・このはねた流れを2つの「将棋頭」(白根将棋頭竜岡将棋頭)で受け止めます。
・次に河岸段丘を切り開いた「堀切」で御勅使川の洪水の流れを「高岩」へ導き、その勢いを弱めています。
・弱まった流れをこの「信玄堤」がしっかり受け止めているのです。
(看板資料より)

高岩の見学中に、信玄堤の場所を教えてもらいました。国道20号線を南下してほうとうの小作を通り過ぎて少し行ったところを右に下りていくと信玄堤に出られるとのことでしたので現場に行ってみると、以前来たことがあるところでした。ちゃんと駐車場もあってその入口には信玄堤とかかれていました。多分ここが信玄堤公園というのだと思います。土手には大きな説明看板があって人が近づくとセンサーが反応して説明が始まりました。土手を越えると釜無川で、聖牛が並べられていました。この風景はテレビでも見たことがあります。
ここは信玄橋の北側ですがここは現在信玄堤公園といわれており、通称信玄堤といえばここをさすのだと思います。しかしここらへんは一番、二番出しという説明もありました。去年の年末に来たのは信玄橋の南側ですが説明によるとこの信玄橋の南側が信玄堤であると書かれているところもありました。
大きな意味で信玄橋周辺を信玄堤といい、北側を特に一番、二番出しというということで私は理解しました。

 



2004年12月30日

信玄堤の霞堤
「信玄堤」は、釜無川・御勅使川の洪水を防ぐために戦国時代に武田信玄の命によりつくられたといわれます。また「信玄堤」のほかにもいろいろな施設で釜無川・御勅使川の洪水を防いでいます。
昔の「信玄堤」は霞堤という堤防形式に分類されます。この堤防形式は日本全国の急な流れの川で見られ、その特徴は図のように川の流れに対して逆八の字の形で堤防を配置し、上下流の堤防の間にはすきまをあけ、そして、一部重なるようにしています。
堤防同士にすきまがあるため、大きな洪水にはここから水があふれますが、再び下流のすきまから川へ戻ります。このように洪水の流れを柔らかく受け止めて、洪水の流れが暴れることを防いでいました。現在のように強くて連続した堤防をつくる技術のなかった昔の人々の知恵です。
(看板資料より)

ここには以前にも何度か来たことがあったのですが地図では信玄堤と書かれている場所ですがどれが信玄堤なのか未だに良く分かりません。昨年、NHKの「その時歴史が動いた」で武田信玄の国造りのひとつとして堤防の整備が取り上げられ、いくつかの史跡が紹介されていましたが、今度もう一度それを見て確認してから訪れたいと思います。


石積出し(二番堤)
将棋頭(白根将棋頭)
将棋頭(竜岡将棋頭)
高岩

 

 
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