長坂町指定文化財
歴史資料 清光寺の制札
制札とは、寺社や道ばたなどに立てた、禁止や命令を墨書きした木の札のこと。清光寺には武田勝頼が出した制札と、徳川四奉行が出した制札の2点が現存している。
武田勝頼が天正3(1575)年に発行した制札は、寺内での殺生や乱暴な行いを禁止したものである。甲府にも同様の制札が出されたが、それは長篠の戦の後のもので清光寺のものは、県内に現存する勝頼の制札としては最古のものと考えられている。
もう1点の制札は1603(慶長8)年に徳川4奉行が出したものである。
(看板資料より)
長坂町指定文化財
史跡 清光の墓
逸見冠者黒源太清光は、甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の孫で、1110(天永元)年、源義清のあとつぎとして生まれた。常陸国武田郷(茨城県ひたちなか市)にいたが、父義清と共に、甲斐国市河庄(山梨県西八代郡市川大門町)に配流となった。
その後、父と開拓した逸見地方(北巨摩郡一帯)を拠点に勢力を広げ、谷戸(北巨摩郡大泉村)茶臼山に谷戸城を築いた。清光は子に恵まれ、それぞれの子を国中(甲府盆地)へ進出させ、旗下におさめた。
1168(仁安3)年6月8日、59才で谷戸城に没し、城の西側に葬られ、同所の五輪塔(清光の墓)は清光寺本堂裏山に移されて、再建されている。位牌には「清光院殿玄源太公大居士」とある。清光の次男信義は、武田庄(韮崎市)で勢力を培い、武田氏の祖となった。
(看板資料より) |