源義清館跡と義清塚
源義清は甲斐国に源氏の勢力を最初に扶植した人物である。大治5(1130)年の「清光濫行」(『長秋記』)を契機として、天承元(1131)年ごろ、義清・清光父子は常陸国那珂郡武田郷(茨城県勝田市武田)から追われ、甲斐国市河荘に入ったとされる。
本義清神社は義清の没後(久安5年=1149・一説久安元年)、その館内に社殿を造営して義清大明神と称したといい、また、社の西に義清の墳墓と伝える義清塚がある。昭和60(1985)年境内並びに義清塚の発掘調査が行われ、考古学上からも検討が加えられた。なお、市川大門町においても平塩岡には義清の館跡や墳墓が残るとされている。
義清の子清光(1110〜1168)は、八ヶ岳南麓逸見荘を根拠に勢力を伸張し、その多くの男子たちを国内の要地に分封することによって、甲斐源氏発展の基礎を固めたのである。
義清神社及び義清塚は、甲斐国における武士団としての甲斐源氏の成立と発展を見るうえで、欠くことのできない場所であり、さらに、それらの歴史的景観を保持している地域である。
(看板資料より)
義清神社は閑静な住宅街の中にありました。神社の周りに水路がめぐらされていて、水路を渡って鳥居の奥に本殿があり、そのまわりには散歩道がありました。義清塚はどこにあるのか分かりませんでした。
→甲斐源氏旧蹟之碑
→源義清公館跡伝承地
→清光寺
→熊野神社
→平塩寺
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