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静岡県磐田市

匂坂城

 
2013年12月31日

遠江の国人領主匂坂氏が居所とした城で天文元壬辰(1532)年匂坂筑前守六郎五郎長能は、社山城主を菅沼重左衛門定平と交替し、本領匂坂に城砦を構築した。また社山城より若宮八幡社を匂坂城に移し鎮守とした。元亀2(1571)年3月、武田信玄の高天神城攻めの時、同月6日信玄凱軍し、小田松、匂坂、宮口の3城が落城した。遠江に進出した武田信玄は、匂坂城を落とし、重鎮穴山梅雪を置いて守らせていた。この頃の匂坂城は、武田軍の二俣攻めに際し、掛川浜松を分断する大きな役割を果たしていた。城跡は本城跡といい、宝暦年間(1751)、土地を鋤塚とし、槍、太刀等が出、若宮の内に納められた。
(現地石碑記載文章より)


匂坂六郎五郎長能 後改六右衛門入道筑前守従五位下 今川家に属す。社山城主

天文元年

本領匂坂に城砦を築く。

天文4年

西手、中日尾、西城の采地証文を氏輝より賜り奥山城に住す。

天文5年

甲州都留郡山中合戦の時、氏輝の先陣を努め軍功有り、采地を賜る。

天文16年

今川冶部大輔義元より本領を賜る。

天文20年

三州長澤城に住す時、吉田(豊橋)の戸田氏を撃ち、野田郷を賜る。

天文23年

松平廣忠逝去の後三州岡崎城に住し、本領の上三州に於いて250貫文加増される。

弘治4年

三州寺部城主鱸日向守重治を撃ち、寺部領を賜る。

永禄4年

三州牛久保城に住す時、数年の抽軍に依り今川上総介氏真より400貫文加増される。

永禄7年

三州の領地を遠州に於いて替地、並びに加増さる。見取村蔵参庵を移し、岩田山蔵参寺を建立し、開基となる。天正17年蔵の字を増に改める。

永禄8年

今川の一族堀越六郎氏真に逆心の時、長能の武功を以って退治、堀越領跡、氏称号源性堀越性を賜る。後匂坂に復す。

永禄9年

丙寅年5月11日匂坂城内にて卒。年76歳。
      法名 増参寺殿玉叟長金大禅定門
      室  高天神城主 小笠原興八郎女
      法名 英照院殿花顔智貞比尼

永禄11年

徳川家康遠江に入国、長能嫡男政信二男吉政、家康に属す。
家康より790貫の領土安堵状を賜る。

元亀元年

姉川合戦の時、匂坂兄弟朝倉義景の重臣真柄十郎左衛門直隆を撃ち、政信家康より佩刀を拝領。織田信長より長の一字を賜り長親と改める。

(現地石碑記載文章より)

 



2007年11月04日

遠江の国人領主匂坂氏が居所とした城で天文元壬辰(1532)年匂坂筑前守六郎五郎長能は、社山城主を菅沼重左衛門定平と交替し、本領匂坂に城砦を構築した。また社山城より若宮八幡社を匂坂城に移し鎮守とした。元亀2(1571)年3月、武田信玄の高天神城攻めの時、同月6日信玄凱軍し、小田松、匂坂、宮口の3城が落城した。遠江に進出した武田信玄は、匂坂城を落とし、重鎮穴山梅雪を置いて守らせていた。この頃の匂坂城は、武田軍の二俣攻めに際し、掛川浜松を分断する大きな役割を果たしていた。城跡は本城跡といい、宝暦年間(1751)、土地を鋤塚とし、槍、太刀等が出、若宮の内に納められた。
(現地石碑記載文章より)


匂坂六郎五郎長能 後改六右衛門入道筑前守従五位下 今川家に属す。社山城主

天文元年

本領匂坂に城砦を築く。

天文4年

西手、中日尾、西城の采地証文を氏輝より賜り奥山城に住す。

天文5年

甲州都留郡山中合戦の時、氏輝の先陣を努め軍功有り、采地を賜る。

天文16年

今川冶部大輔義元より本領を賜る。

天文20年

三州長澤城に住す時、吉田(豊橋)の戸田氏を撃ち、野田郷を賜る。

天文23年

松平廣忠逝去の後三州岡崎城に住し、本領の上三州に於いて250貫文加増される。

弘治4年

三州寺部城主鱸日向守重治を撃ち、寺部領を賜る。

永禄4年

三州牛久保城に住す時、数年の抽軍に依り今川上総介氏真より400貫文加増される。

永禄7年

三州の領地を遠州に於いて替地、並びに加増さる。見取村蔵参庵を移し、岩田山蔵参寺を建立し、開基となる。天正17年蔵の字を増に改める。

永禄8年

今川の一族堀越六郎氏真に逆心の時、長能の武功を以って退治、堀越領跡、氏称号源性堀越性を賜る。後匂坂に復す。

永禄9年

丙寅年5月11日匂坂城内にて卒。年76歳。
      法名 増参寺殿玉叟長金大禅定門
      室  高天神城主 小笠原興八郎女
      法名 英照院殿花顔智貞比尼

永禄11年

徳川家康遠江に入国、長能嫡男政信二男吉政、家康に属す。
家康より790貫の領土安堵状を賜る。

元亀元年

姉川合戦の時、匂坂兄弟朝倉義景の重臣真柄十郎左衛門直隆を撃ち、政信家康より佩刀を拝領。織田信長より長の一字を賜り長親と改める。

(現地石碑記載文章より)

匂坂は「さぎさか」と読みます。現地にある石碑はすぐに見つけることができました。自宅を出たのが遅かったので現地に到着したのは昼過ぎくらいでした。逆光であったため写真を撮影することによって記載文章を確認することが困難だったので、記載文章を書き写しました。周辺には小学校と保育園がありますが、石碑の回りは一面畑でした。ネギ畑の方から石碑を見てみたら匂坂城に関することが時系列に記録されていたのでこれも写させてもらいました。
武田信玄の西上作戦ではすでに一言坂の戦い後、浜松掛川は分断されていましたが、匂坂城に穴山梅雪を置いて監視を始めたことにより天竜川東岸はほぼ武田方の勢力下に置かれてしまったのでしょうか?この間に武田本隊は二俣城攻略にとりかかるわけですが、まさに徳川家康は手も足も出ない状況に追い詰められていたようです。

 

 
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