小笠山砦 |
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小笠山山塊の中心部が小笠山砦で、掛川・袋井両市と大東町との境に位置する。小笠山砦は、徳川家康が高天神城包囲攻撃のため構えた六砦の一つであり、『小笠郡誌』小笠神社の項に、家康がここに陣を数旬にわたって布いたことから、村民が離散し、社も大いに荒らされ、古文書や旧記などすべて亡失したと伝えている。現在、曲輪・堀切などの遺構をよく残しており、小笠神社西側尾根続きの東南から北西に、約100mの細長い地域を砦域とし、本郭ともいうべき部分は笹ヶ峰御殿跡に相当し南北の幅は約17-20m、東西60mで、南北両側は垂直に切り立つ崖となっている。最高部は物見台を思わせ、堀切・腰曲輪を付けて守られ、その西側には若干の平場を設けて兵士の駐屯を可能にし、さらにその平場の西側尾根続きにある高所「芝神童笛吹丘」、「多聞神社」のある地点も物見台として用い、笠ヶ峰の死角を補ったものと推測される。 |
高天神城跡より北方約4qの掛川市入山瀬に所在する、標高約250mの小笠山山頂付近に築かれた。 |
笹峰御殿跡
徳川家康が永禄12(1569)年掛川城の今川氏真を、又、天正9(1581)年に高天神城を攻めた時に家康の陣屋があったところで、御殿は後に取り拂われた。家康は浜松からここに来たのである。 |
小笠神社
御祭神
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小笠山山塊の中心部が小笠山砦で、掛川・袋井両市と大東町との境に位置する。小笠山砦は、徳川家康が高天神城包囲攻撃のため構えた六砦の一つであり、『小笠郡誌』小笠神社の項に、家康がここに陣を数旬にわたって布いたことから、村民が離散し、社も大いに荒らされ、古文書や旧記などすべて亡失したと伝えている。現在、曲輪・堀切などの遺構をよく残しており、小笠神社西側尾根続きの東南から北西に、約100mの細長い地域を砦域とし、本郭ともいうべき部分は笹ヶ峰御殿跡に相当し南北の幅は約17-20m、東西60mで、南北両側は垂直に切り立つ崖となっている。最高部は物見台を思わせ、堀切・腰曲輪を付けて守られ、その西側には若干の平場を設けて兵士の駐屯を可能にし、さらにその平場の西側尾根続きにある高所「芝神童笛吹丘」、「多聞神社」のある地点も物見台として用い、笠ヶ峰の死角を補ったものと推測される。 |
高天神城跡より北方約4qの掛川市入山瀬に所在する、標高約250mの小笠山山頂付近に築かれた。 小笠山砦は徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた6つの砦の一つです。高天神城攻略のための拠点は横須賀城ですが更に高天神城と駿河との連絡を遮断するために築かれたのが6つの砦なのだと思います。高天神城の東側を取り囲むように砦が築かれ、そのうち小笠山砦は一番北側に位置する砦です。東側から小笠神社を目指して行きました。車でかなり高所まで登れましたが、駐車場からは徒歩になります。神社までは15分と書かれていましたがそんなにかかりませんでした。小笠神社にはきれいなトイレもありました。また南の方を見るとなんと遠州灘まで一望できました。残念ながら高天神城がどれなのかは分かりませんでした。神社を超えて更に進んで行くと小笠山砦と書かれた棒杭がありそこはちょうど空堀の遺構が残っていました。そのすぐ先には家康が陣を置いたという笹ヶ峰御殿跡がありました。その先の少し高くなっている所からは北側の景色が一望できました。更に進むと多聞神社があり、その先には小笠神社の反対側の入口がありました。そこまで行って再び戻ってきました。 |
笹峰御殿跡
徳川家康が永禄12(1569)年掛川城の今川氏真を、又、天正9(1581)年に高天神城を攻めた時に家康の陣屋があったところで、御殿は後に取り拂われた。家康は浜松からここに来たのである。 |
小笠神社
御祭神 |
多聞神社
いいつたえによると徳川時代のはじめに浅羽村の、芝の河村平馬の子、小大夫は笛を吹くことが、上手で15の時に小笠山に登ったままわからなくなった。
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