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山梨県甲府市

小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡

2007年10月28日

小畠虎盛は、遠江国の出身で、幼少の折に父日浄とともに武田家に仕え、永正15(1518)年に父死去により家督を相続し、信虎から騎馬15騎、足軽75人を預かる足軽大将に任じられたという。信虎・信玄2代の重要な作戦のほとんどに参加し、永禄3(1560)年に信濃海津城が完成すると、高坂弾正の補佐役として在城した。虎盛は、川中島の合戦の直前に病没した。「よくみのほどをしれ」と子息に遺言したという。家督は息子昌盛が継ぎ、名字を「小幡」に改め、自ら希望して信玄の旗本になった。武田氏滅亡の際は病気のため、勝頼荷に従うことができず、甲斐善光寺前で暇乞いをしてまもなく死去した。信玄・勝頼の事績を描いた「甲陽軍鑑」の編者小幡景憲は昌盛の三男である。
(看板資料より)

 

小畠山城守虎盛

(延徳3年?〜永禄4年6月2日)
小幡豊後守昌盛

(天文3年〜天正10年3月6日)

武田三代に仕えた猛将
(看板資料より)

 

 
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