高坂弾正忠昌信屋敷跡 |
2007年10月28日 |
高坂弾正の名で知られるが、実際には香坂弾正忠虎綱、後に本性に戻って春日虎綱と称している。石和の大百姓春日大隈の子で、天文11(1542)年に信玄に見出されて近習となり、その後使い番を経て、天文21(1552)年に足軽大将に抜擢された。翌年には小諸城代に、永禄3(1560)年ごろ海津城代に任命されるなど、異例の出世を遂げた。高坂弾正は、川中島の豪族を指揮下に置き、上杉謙信の南下に備えた。永禄4年の川中島の戦いなどで活躍した。天正3年の長篠の戦いで、山県・馬場らの宿将が戦死したことに危機感を覚え、信玄の言行や行動哲学などをまとめた書物を書き上げ、勝頼の側近達に贈ったといい、これが「甲陽軍鑑」の原本とされる。天正6(1578)年の謙信死後、上杉景勝と勝頼の同盟交渉を担ったが、実現しないまま病没した。 |
高坂弾正忠昌信
(大永7年〜天正6年6月14日) |