穴山玄蕃頭信君屋敷跡 |
2007年10月28日 |
穴山氏は、甲斐源氏の支流で、穴山を本拠地にしつつ、河内領(南巨摩郡一帯)を支配した強豪。信君は、穴山信友の子で、生母は信玄の姉南松院殿、正室は信玄の息女見性院殿であり、極めて重用されたことがわかる。永禄元(1558)年ごろより、父信友に代わって穴山家を取り仕切り、同3年10月に父が死去すると、正式に家督を相続した。穴山家当主となって、最初に経験した大合戦が永禄4(1561)年の川中島の戦いで、この時は武田軍本隊の左翼を守っていた。信君は今川氏とも親交が深く、信玄の今川攻めに際しては、今川家臣の調略を担ったという。長篠の合戦で、山県昌景が戦死したため、駿河江尻城主に就任し、織田・徳川・北条三氏の圧力を防いだ。武田氏滅亡の際は、織田・徳川氏に降伏し、武田氏の再興を夢見たが果たせないまま、本能寺の変に巻き込まれて死去した。 |
穴山玄蕃頭信君
(天文10年〜天正10年6月2日) |