小諸城 |
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三の門
重要文化財 小諸城三の門(平成5年12月9日国指定) |
二の門跡
小諸城の沿革と懐古園 |
二の丸跡
旧白鶴城という。徳川秀忠が関ヶ原合戦に赴く際逗留したところ。 |
鶯石
城主の通行や祝いごとのあるたびに「うぐいす」の鳴声をたてたといわれる。 |
南丸跡
黒門橋
黒門跡
お駕籠台跡
本丸跡
小諸は東が浅間山麓の丘陵に連なり、西を千曲川が流れ、さらに南北は絶壁となっている天然の要害地である。 |
石垣
天守台
天文23(1554)年に「8月6日ニ、サクノカウリノ要カイ一夜ニ九ツヲチ申候、(中略)小室モ自ラヲチ申候」(『勝山記』)とあるように武田信玄は自落した小諸城を佐久・小県の鎮台とするため鍋蓋城も取り入れて戦国時代の大要塞に拡大した。この時縄張りをしたのが山本勘助であるという説が残っている。小諸城の基本構造である一直線上に本丸・二の丸・三の丸を設け、左右対照の郭を置く姿はこの時すでにできていた。信玄は小山田備中守昌行を置いて守らせたが、永禄年間(1558-70)、越後国上杉氏との対立抗争の間には「岩櫃より注進の如くんば、敵沼田へ相移るの由に候。万一西上野に至って行に及ばば、北方衆悉くその地へ移すべきの旨申し付け候、また佐久郡の同心衆・松井田の地衆を相集め、城内・根小屋等堅固の備尤もに候」と城の警備を厳にすべき旨の手紙を城将昌行に送っている。 |
天守台
鏡石
山本勘助晴幸が常に愛用したと伝へられる。また隕石とも言われている。
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小諸城の沿革と懐古園 |
石垣
この部分の石垣は復元したものです。明治4(1871)年の北国街道整備の際、ここにあった石垣は道路の端縁石に用いられ、その後長い間火山灰の崖のままでしたが、石垣を懐かしむ声が多数寄せられ、昭和59(1984)年に当時より大きな石を用いて復元しました。 上の写真の石垣は入場してすぐのところにあった石垣ですが、案内に書かれていた通り大きな石垣でした。現在の小諸城址は全体的に立派な石垣が残されています。 |
二の丸跡
旧白鶴城という。徳川秀忠が関ヶ原合戦に赴く際逗留したところ。 |
鶯石
城主の通行や祝いごとのあるたびに「うぐいす」の鳴声をたてたといわれる。 |
北の丸跡
懐古神社
本丸は懐古神社になっていました。懐古神社の鳥居の横には小諸城址の石碑がありました。 |
鏡石
山本勘助晴幸が常に愛用したと伝へられる。また隕石とも言われている。 |
展望台から千曲川
小諸城本丸の奥は馬場で広くなっていました。我々が訪れた時は菊の展示が行なわれていました。馬場の先は断崖絶壁になっていて展望台がありました。上の写真の右上の部分がその展望台ですが、断崖の下には蛇行する千曲川を望むことができました。 |
地獄谷
展望台から戻り、左側に進むと酔月橋があってこの橋を渡ると、小山敬三美術館や郷土博物館に行くことができます。今回は既に時間が遅かったので酔月橋までしか行きませんでした。しかしこの橋は地獄谷と呼ばれる険しい谷の間にかかっていて橋から下をのぞくと足がすくんでしまいます。まさに天険を利用した要害ですね。小諸城がこんなに険しい城であるとは知りませんでした。 |
本丸と南丸の間の堀
本丸と南丸の間には黒門橋がありますが、この橋は本丸と南丸の間の堀にかかっているものでした。この堀もかなり大きな規模のものでした。前回来たときはなんでこれらの遺構に気がつかなかったのでしょうか?多分まだ史跡を巡り始めたばかりだったので興味が湧かなかったのかもしれません。 |
武器庫
この建物は文化14(1817)年藩主牧野康長公が建てたものです。廃藩後取りこわされ八幡村依田仙右衛門宅へ移し更に東京へ移築し使用していたものを復原するため当時の外観など原形に近いものを建てようとして再建したものです。
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二の丸跡
懐古園稲荷神社由緒 |
山本勘助が愛用したといわれる鏡石
馬場付近
荒神井戸
寛保の大洪水後掘られた城内唯一の井戸
黒門橋
重要文化財 小諸城大手門 |
小諸宿本陣主屋 |