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長野県辰野町

羽場城

2011年12月31日

羽場城の由来
内堀、中堀、外堀の址が今も残っている羽場城址は今からおよそ450年前、天文のはじめに下伊那松尾の城主小笠原貞宗の四男、小笠原重次郎がこれを北の沢を濠として建てたといわれている。
その後武田勢が伊那谷へ攻めて来た時は、小笠原長時は、旗本草間肥前守時信をもちいてよく城を守り抜いた。
続いて小笠原氏は宗氏の四男、左門から左太夫氏行左京進行重掃部助重氏、同じく行政、政氏等に在城させていた。
その後、弘治年間、武田氏再度の侵入があった時、政氏は遂に屈服してしまった。
そして武田氏は、制圧した後、柴河内守にこの城を守らせたが、天正10年2月織田氏のために落城した。
織田氏は、文禄年間、京極修理太夫高知が飯田に在城していた時、羽場城には城代を置いて近隣をおさめさせていたが、間もなく廃絶となった。在城は約50年
となる。
明治43年、秋葉神社を合併した手長神社を新設して今に至っている。
(看板資料より)

羽場城館跡
羽場城館跡は、天竜川の流れに侵食された羽場淵の崖上に築かれ、これを北側の要害とし、残る三方面の備えは二重にめぐらせた土塁と空堀とする、いわゆる
平山城で戦国末期の洗練された姿を今に伝えている。
現在に残る遺構は上図のようであり、主郭の土塁と空堀は、土塁頂部から堀底まで6m以上、堀幅は20m以上におよび、当時の大規模な土工事を偲ぶことができる。
また、主郭の東西に郭が設けられ、東の郭には櫓台と思われる約10メートル四方の土壇が残されている。西の郭は大正期の伊那電気鉄道(現飯田線)軌道開削
で大きく削られている。
主郭と東西の郭を囲む外土塁はかなり削平が進んでいるが、堂山と呼ばれる無量寿庵跡付近には二ヶ所の小山が残されていて、築造当時の外土塁の規模を知ることができる。地元では土塁南側の小路を掘道と伝え、外土塁の外周をめぐっていた大規模な堀の存在も推測されている。
「長野県町村誌」は「天文年中小笠原12郎居住すと云跡あり」として、戦国期に小笠原氏ゆかりの氏族の居住を伝え、また「小平物語」は、近世初頭に上伊那
十三騎の一騎として活躍した柴氏の居住を記している。しかしのこ城館の築造は未完に終わったことも伝えられ、柴氏の居住も近世初頭の一時期で、居館の構
えも主郭部のみであったと考えられている。寛永13(1636)年、高遠城主の保科正之が出羽山形に移封すると、これに従って柴氏も移住し、この城館は役割を終えた。
(看板資料より)

堀跡

羽場の北の沢の上に古城の跡がある。天文13(1544)年に武田勢が有賀口から伊那郡に攻め入ってきた時、小笠原長時の旗下の草間肥前守がこの場所で支え、竜ヶ崎で合戦をした。その後、弘治年中(1555〜58)に武田方の柴河内守をここに差し置いた。文禄年中(1592〜96)に飯田城主の京極修理大夫がこの地を知行した時に、今の羽場へ城を移した。
(長野県の武田信玄伝説より)

櫓台と思われる土壇


場所は手長神社を目指して行くとたどり着けると思います。想像以上に大規模な堀で郭が仕切られており驚きました。土塁も残されていましたが土塁の上から堀の底までマレットゴルフのコースになっていました。手長神社周辺の郭と堀跡のみの確認となりましたが、図によると更に外側の堀跡もあるようでした。神社の裏側にまわってみると天竜川の川のせせらぎが心地よかったです。
また一部が飯田線に破壊されていたのは残念でした。

 

 
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