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長野県塩尻市

釜井庵

2014年05月24日

夜泣き石

伝説 夜泣き石
洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く
(棒杭に記載された文章より)

塩尻峠を制する者は信州を制するといわれ、その足がかりとして重要な峠である。武田信玄は塩尻峠の戦いによって、信州を攻略する拠点を得たということができる。武田方に寝返った三村駿河守長親は、洗馬朝日を領有した洗馬妙義山の城主で、洗馬の長興寺を建立した地方で有力な豪族であった。永井坂の戦いが終わった後も、林城その他の城の攻略に参加した。信玄は戦功を与えるからと長親を甲府に呼んだ。長親は意気揚々と家来二百数十名を引き連れて、甲府の一蓮寺に宿を取った。その夜、信玄は主を裏切る者はまた裏切る心配があるといって兵を向け、寺を焼き、一族郎党を皆殺しにした。そのため三村一族は滅亡した。現在、市の史跡に指定された釜井庵に、長親の館があったといわれている。釜井庵は妙義山の麓にあるが、その庭に夜泣石という石がある。三村一族の妄念が夜泣きするのだと、伝説として語り伝えられている。
(塩尻の伝説と民話・長野県の武田信玄伝説より)

塩尻市洗馬の釜井庵の庭に夜泣石がある。三村某がここを通って出陣し、武田氏に敗れてからは晴れの通行をきらうようになった。天気の変わる時には、カエルのような泣き声を出したという。元はこの下の村外へ通じる道にあった。
(信州の伝説・長野県の武田信玄伝説より)


釜井庵

戦国時代、妙義山城々主三村氏が設けた居館跡である。江戸中期には溝・釜井ともいい、菅江真澄は「いほの春秋」で可摩永と書いている。江戸時代の紀行家菅江真澄(白井秀雄)は、天明3(1783)年この地を訪れ、釜井庵を拠点として過し、人々と交流するかたわら各地の風物を訪ね歩いた。本洗馬1年余りは、真澄の生涯のうえでも極めて重要な位置を占め、名高い「真澄遊覧記」の信濃に係わる大部分は、この庵で筆を執ったと言われている。また、丹羽花逕、大脇正蔵等の手習い師匠がこの庵に住み村民の子弟を教え、この地方指導者層の多くの人材を育てた。洗馬文化、教育史を語る上でも忘れてならない庵である。
釜井庵の建築年代は18世紀の中頃と推定され、その後何度も改造されている。現建物は、平成10年3月修復したものであり、往時の姿を偲ぶことができる。
(看板資料より)

戦国時代三村氏の居館(構え)の跡に庵を建立して釜井庵と云う。現在の庵は宝暦のころ再建のもので本尊は弘法大師。菅江真澄が天明3年から1年余りこの庵に滞在す。天明から明治初年まで寺子屋塾として洗馬の子弟教育の場であった。民俗学者柳田國男この庵を訪れて「洗馬山の釜井の庵の雨の日の昔話と我もなりなむ」とよまれた。
(看板資料より)

 



2007年03月11日

戦国時代、妙義山城々主三村氏が設けた居館跡である。江戸中期には溝・釜井ともいい、菅江真澄は「いほの春秋」で可摩永と書いている。江戸時代の紀行家菅江真澄(白井秀雄)は、天明3(1783)年この地を訪れ、釜井庵を拠点として過し、人々と交流するかたわら各地の風物を訪ね歩いた。本洗馬1年余りは、真澄の生涯のうえでも極めて重要な位置を占め、名高い「真澄遊覧記」の信濃に係わる大部分は、この庵で筆を執ったと言われている。また、丹羽花逕、大脇正蔵等の手習い師匠がこの庵に住み村民の子弟を教え、この地方指導者層の多くの人材を育てた。洗馬文化、教育史を語る上でも忘れてならない庵である。
釜井庵の建築年代は18世紀の中頃と推定され、その後何度も改造されている。現建物は、平成10年3月修復したものであり、往時の姿を偲ぶことができる。
(看板資料より)

戦国時代三村氏の居館(構え)の跡に庵を建立して釜井庵と云う。現在の庵は宝暦のころ再建のもので本尊は弘法大師。菅江真澄が天明3年から1年余りこの庵に滞在す。天明から明治初年まで寺子屋塾として洗馬の子弟教育の場であった。民俗学者柳田國男この庵を訪れて「洗馬山の釜井の庵の雨の日の昔話と我もなりなむ」とよまれた。
(看板資料より)

本洗馬歴史の里の受付の人にお話をお聞きしました。それによると三村一族は関東から信州の洗馬に移り住んできたとのことでした。もともと小笠原氏と縁があり、小笠原長時の家臣であったが武田信玄が攻めて来たときに武田方に寝返ったとのこと。その後木曽氏攻略の際も尽力したが、武田信玄は三村氏の勢力が侮れないと感じ、一度主家を裏切ったこともあり信用ならないとのことで、甲斐に呼び出されて甲斐善光寺で火あぶりにされたとのことでした。また、新田次郎の小説武田信玄では、第2回川中島合戦の始まる前に三村長親は長尾景虎(上杉謙信)が勝つと見越して越後と通じて木曽義康、義昌父子と謀って武田に叛いたため、川中島合戦後に甲斐に呼び出されて殺されたように書かれていました。


夜泣石

伝説 夜泣き石
洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く
(棒杭に記載された文章より)

塩尻峠を制する者は信州を制するといわれ、その足がかりとして重要な峠である。武田信玄は塩尻峠の戦いによって、信州を攻略する拠点を得たということができる。武田方に寝返った三村駿河守長親は、洗馬朝日を領有した洗馬妙義山の城主で、洗馬の長興寺を建立した地方で有力な豪族であった。永井坂の戦いが終わった後も、林城その他の城の攻略に参加した。信玄は戦功を与えるからと長親を甲府に呼んだ。長親は意気揚々と家来二百数十名を引き連れて、甲府の一蓮寺に宿を取った。その夜、信玄は主を裏切る者はまた裏切る心配があるといって兵を向け、寺を焼き、一族郎党を皆殺しにした。そのため三村一族は滅亡した。現在、市の史跡に指定された釜井庵に、長親の館があったといわれている。釜井庵は妙義山の麓にあるが、その庭に夜泣石という石がある。三村一族の妄念が夜泣きするのだと、伝説として語り伝えられている。
(塩尻の伝説と民話・長野県の武田信玄伝説より)

塩尻市洗馬の釜井庵の庭に夜泣石がある。三村某がここを通って出陣し、武田氏に敗れてからは晴れの通行をきらうようになった。天気の変わる時には、カエルのような泣き声を出したという。元はこの下の村外へ通じる道にあった。
(信州の伝説・長野県の武田信玄伝説より)

 

 
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