甲斐善光寺 |
2013年09月01日 |
善光寺山門付棟札
5間3戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦4(1754)年の大火により、本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和4(1766)年に上棟式がおこなわれた。 |
定額山浄智院善光寺由来 定額山浄智院善光寺の概要 甲斐善光寺の棟木 木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫右側) |
2005年05月29日 |
阿闍梨の井戸
浄土宗の開祖法然上人の師であった、肥後阿闍梨皇円上人は、嘉応元(1169)年6月に、遺言として次のようなことを語りました。「私はこのたび魂を遠州桜が池(静岡県掛川市)に移し、弥勒菩薩下生の56億7千万年後まで、蛇の姿となって待とうと思う。しかしその間に心がゆるむといけないので、毎年大晦日の夜、信濃善光寺の阿弥陀如来様に参詣し、仏縁が切れないようにしたい。ついてはその一夜の宿の場所として、善光寺の金堂辺りを穿とうと思う。」 前回訪れた時に知った小山田信茂の首塚を見るために甲斐善光寺に寄りました。到着したときはまだ朝7時半くらいだったので善光寺に入ることができず、先に小山田信茂の首塚を見学しました。善光寺に戻ってきてから北の方から境内に入ったのですが、案内板を見て阿闍梨の井戸というものがあることを知り、犬の散歩をしていた近所の方に場所を尋ねて井戸を発見することができました。
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2005年01月09日 |
定額山浄智院善光寺由来 定額山浄智院善光寺の概要 甲斐善光寺の棟木 木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫右側) |
善光寺山門付棟札 |
お咳婆さんの石
この大きな石は、「お咳婆さんの石」と呼ばれています。いつの時代からか、百日咳などに苦しむ者が、全快したら飴を奉納する約束をして祈願すれば、効験が著しいと言われておりました。同様に信仰されてきた石は、甲府市千塚など各所にもあるといわれております。 |
加藤光泰の墓
加藤遠江守光泰は、天正19(1591)年から文禄2(1593)年まで甲斐国の領主であった。文禄2年に豊臣秀吉の命を受け朝鮮へと出兵するが、同年8月29日に病死する。甲斐国在任中の2年間に甲府城の築城工事を受け継いだが、完成を見ることなく死亡した。 |
善光寺銅鐘
本銅鐘は、正和2(1313)年に補鋳されたことが銘によってわかる。治承3(1179)年と文永4(1267)年の善光寺火災の折、火をうけてその都度修理されている。鐘の周囲は4つに区分され、八葉複弁(蓮の花)をきざんだ撞座があり、鐘乳は総計100個つくられている。鐘の肩の部分は大変力強く、鎌倉時代の風格を表わしており、美術的価値の高い遺品である。なお、本鐘は武田信玄によって長野市善光寺より本尊その他とともに移されたものである。 |
霊牛碑
江戸芝牛町に、大切に飼われていた牛がおりました。延宝6(1678)年5月下旬のこと、その主人の夢に三晩続けて牛が現われ、「私を甲斐善光寺へ参詣させてください。そうすれば、必ずこの家は末長く栄えるでしょう。」と告げたのです。主人は不審に思っていると、6月初め牛は自ら小屋を出て、西に向って駆け出してしまいました。主人はあわてて後を追ったのですが、捕まえることができず、先日の夢の告げも思いあわせ、放っておくことにいたしました。一方この牛は、四谷口から甲州街道をひた走り、6月18日板垣村善光寺に到着し、金堂に参詣いたしました。四足を折り伏して頭を垂れる様は、まことに人が善光寺の如来様を拝むかのようであったと申します。数刻の後、おもむろに立ち上がり、金堂の東側に駐まること7日間、8日目にようやく帰路につきました。 久しぶりに甲斐善光寺に寄りました。前回はまったく人がいなかったのに対して今回は正月ということもありたくさんの参拝客が訪れていました。金堂の入口のところで加藤光泰の墓の場所を教えてもらって見学の後、金堂の中の「お戒檀廻り」もしましたが、一度目は鍵に触れることができず、二度目にやっとのことで触れることができました。
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2001年02月18日
ここは私が行った時間が早かったためか観光客は私1人だったのでおばちゃんがつきっきりで案内してくれました。 |
山門
金堂
1984年03月29日 |
→善光寺
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