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長野県木曽町

大通寺

2013年08月02日

<EOS M EF-M22mmf/2 STM 22.0mm Tv:1/800 Av:2.0 ISO:100>

武田信玄公息女 真理姫供養塔
真理姫は武田信玄の三女で、天文24(1555)年木曽に攻め入った信玄が領主木曽義康と和睦した折にその嫡子義昌のもとへ甲府から嫁いできました。そのとき真理姫はまだ6歳ぐらいだったといわれております。
天正10(1582)年、信玄の死後織田信長方についた義昌と真理姫の兄勝頼が戦を交え勝頼は敗れて武田家は滅びてしまう。
そして天正18年には徳川家康によって義昌は網戸(千葉県旭市)にところ替えされ、五年後には病没し跡を継いだ義利の乱行によって木曽家は取り潰される苦難の時代を過ごした。
真理姫は晩年末子の義通と共に木曽へ戻り、三岳村で隠棲したが正保4(1647)年98歳の長寿を全うし波乱の生涯を閉じた。墓は三岳村の野口と、千葉県旭市網戸の東漸寺(義昌公菩提寺)の双方にあります。
大通寺は慶長4(1601)年木曽家の屋敷跡に代官山村良勝が創建した寺ですが、その良勝が義昌の重臣であったことと、良勝の祖母が義昌の叔母であったという説もあり、これらの縁によって供養塔が建てられたものと思われる。ちなみにこの寺には代官山村良勝の奥方の位牌も安置されております。
(看板資料より)

<EOS M EF-M11-22mmf/4-5.6ISSTM 11.0mm Tv:1/500 Av:4.0 ISO:100>

<EOS M EF-M22mmf/2 STM 22.0mm Tv:1/1600 Av:2.0 ISO:100>



2004年09月19日

智勝山 大通寺
鐘楼門
当寺は、関ヶ原の合戦(1600)のあと、柱山和尚を開山とし、木曽代官の山村良勝によって建立されました。この鐘楼門は、安永7(1778)年9月、施主向井休治、大工棟梁は原源右衛門によって建てられたもので、当町に現存する木造建物としては最も古いものの一つです。
梵鐘は、寛文4(1664)年、北傳和尚の時、山村新左衛門忠清、森田佐右衛門眞道によって寄進されたものでしたが、第二次世界大戦で供出されたため、昭和53(1978)年に再鋳されたものです。山門に掲げられている扁額は江戸中期の日本を代表する書家である三井親和の作です。
(看板資料より)


武田信玄公息女 真理姫供養塔
真理姫は武田信玄の三女で、天文24(1555)年木曽に攻め入った信玄が領主木曽義康と和睦した折にその嫡子義昌のもとへ甲府から嫁いできました。そのとき真理姫はまだ6歳ぐらいだったといわれております。
天正10(1582)年、信玄の死後織田信長方についた義昌と真理姫の兄勝頼が戦を交え勝頼は敗れて武田家は滅びてしまう。
そして天正18年には徳川家康によって義昌は網戸(千葉県旭市)にところ替えされ、五年後には病没し跡を継いだ義利の乱行によって木曽家は取り潰される苦難の時代を過ごした。
真理姫は晩年末子の義通と共に木曽へ戻り、三岳村で隠棲したが正保4(1647)年98歳の長寿を全うし波乱の生涯を閉じた。墓は三岳村の野口と、千葉県旭市網戸の東漸寺(義昌公菩提寺)の双方にあります。
大通寺は慶長4(1601)年木曽家の屋敷跡に代官山村良勝が創建した寺ですが、その良勝が義昌の重臣であったことと、良勝の祖母が義昌の叔母であったという説もあり、これらの縁によって供養塔が建てられたものと思われる。ちなみにこの寺には代官山村良勝の奥方の位牌も安置されております。
(看板資料より)


真理姫の墓
木曽義昌公史跡公園
東漸寺
福島城

 

 
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