東漸寺 |
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カーナビで旭市の東漸寺を検索したら見つかったので目的地に設定して現地に向いました。木曽義昌公史跡公園から線路を越えて行ったところでした。最初は場所が分かりづらくなかなかたどり着けなかったのですが大きな駐車場がありました。雨が降っていたので傘をさして参道を歩きました。正面本堂に向って歩いて行くと途中いろいろなところに木曽義昌公云々と書かれたものがありました。本堂から向って右側の方に大きな供養塔がありました。そちらの方に行ってみると本当に立派な供養塔でした。中央に五輪塔、両脇には宝篋印塔がありました。その左側には遺徳碑もありました。本堂の方に戻ってきてからお寺を訪ねてみました。すると住職さんが快く本堂に招き入れてくれました。 |
木曽義昌公・真理姫の位牌
最初に木曽義昌公及び奥方である真理姫の位牌を見せてもらいました。真理姫は木曽で亡くなっているが位牌はここにあるとのことでした。東漸寺は館跡ではなく木曽家の菩提寺であるとのことでした。その後位牌の写真も撮影させてもらいました。本堂はつい最近整備しなおしたとのことでした。旭市では木曽義昌公は多くの人が知っているとのことで、地元では木曽義昌公のことを木曽様と呼んでいるとのことでした。木曽義昌公は椿の海に水葬されたとのことですが、住職の話によれば、そういう話が今日に伝わっているのは武田信玄が諏訪湖に水葬されたという伝説に関係があるのではないかとのことでした。ちなみに椿の海は寛文10(1670)年に干拓されて消滅している。武田、徳川、織田などの大国に囲まれ、しかも豊富な森林資源を有していた木曽は生き抜いていくために武田の傘下に入り、その後織田について武田を滅ぼすきっかけを作り、その後深志城も与えられ10万石となるが、その後すぐに織田信長も本能寺で死ぬと、今度は徳川家康に従った。しかし今度は新たに興ってきた豊臣秀吉に運命をかけることにした。天正18(1590)年に豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼした後、徳川家康に関東を与えた。このとき信濃の諸将は徳川家康の配下に組み入れられ、木曽氏は下総国網戸(阿知戸)1万石に配置換えとなりこの地に来ることになったとのことでした。秀吉が木曽の森林資源に目をつけて木曽氏から取りあげて石川光吉に与えたということですが、徳川家康としても最初の誓詞を反古にされたことや、小田原城攻めに木曽義昌が病気と称して参加しなかったことなどが秀吉や家康の心証を悪くしたのではないかとのことでした。 |
旭市指定史跡 |
木曽左典厩兼伊豫守源義昌公は朝日将軍木曽義仲公19代の孫にて奥方は武田信玄公の息女万里姫なり。 |