天方城 |
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この城がいつ築かれたかは、はっきりした資料は見当たらないが、応永年代には既に山内対馬守の居城であった。城主天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が義元の死後斜陽化、これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12年6月19日家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政、天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃。郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。山城守もよく防戦したがついに力尽きて降伏。 |
案内図
主郭
堀跡
堀跡
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この城がいつ築かれたかは、はっきりした資料は見当たらないが、応永年代には既に山内対馬守の居城であった。城主天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が義元の死後斜陽化、これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12年6月19日家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政、天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃。郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。山城守もよく防戦したがついに力尽きて降伏。 |
案内図
堀跡
展望台
展望台からの景色
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天方城址の石碑
7:30に掛川インターの出たところで慎之介殿と待ち合わせだったので4時には出発しました。6:00には牧之原SAに到着。朝食は味噌ラーメンを食べて、7:00には掛川に到着。慎之介殿もちょうど着いたところのようでした。慎之介殿は埼玉から塩山、甲府、身延線沿いに南下してきたそうです。時間は早かったのですがすぐに出発することにしました。 |
堀跡