掛川市の北部に蛇行する原野谷川が、孕石天神の北側にあたり、数十mの断崖を半円形に東側から南へ迂回して流れており、館跡はこの崖上にある。
孕石氏は主水元泰の時に今川氏から駿府に屋敷を賜り在勤したが、永禄11(1568)年12月、今川氏真の駿府退去により武田信玄に仕えた。天正7(1579)年8月、徳川家康の攻勢に備えて武田勝頼は高天神城将兵の交替を行った。そのおり武者奉行として高天神城に入った元泰は同9年3月、落城の時に負傷して捕らえられ、徳川家康の命によって切腹したという。孕石館の西方200mの所に元泰の首塚と伝える数基の墓石を安置した小丘がある。
一説に家康が駿府で人質生活を送った少年時代、主水元泰は隣接する人質屋敷から家康の放つ鷹が迷い込むと「三河の子倅には飽いた」など聞こえよがしに言い放ち、しばしば侮辱し、この恨みを長く抱き続けた家康が、高天神で元泰を見ると、即座に死を命じた、とも伝わる。
(日本城郭大系より)
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