蔵林寺 |
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ここには米倉丹後守一族の墓地があります。蔵林寺と書かれた入口に車を止めて中に歩いて行きましたが寺の境内には立派な駐車場がありました。そのまままっすぐに進むと本堂と思われる建物があり、向かって左側の方に進んで坂を登ったところに「米倉丹後守一族の墓地」があります。 |
永禄5(1562)年、11月武田信玄、義信父子は、北条氏康、氏政父子とともに上杉憲勝守る武蔵松山城を攻め、翌永禄6(1563)年2月4日に落城させた。 |
米倉丹後守一族の墓地
米倉氏は清和源氏武田の分家で新羅三郎義光の曾孫義行を祖とし、その孫信継が甲斐国八代郡米倉郷に住み米倉姓を名乗った。信継十世の孫重継は、武田勝頼の配下として天正3(1575)年長篠合戦で戦死した。その子忠継は、武田氏滅亡後徳川家康に仕え、甲斐国内で徳川勢力の拡大に努めた。その後、種継、清継と相続し、清継の代に、当地堀山下村の領地200石を賜った。その孫昌尹は、元禄3(1690)年丹後守に任ぜられ、同九年若年寄にすすみ、相模、上野、武蔵に領地を賜り、一万石に加増された。また増上寺修理、東叡山根本中堂の築造、山城の淀川水路補修等の功績により奉行をつとめ、元禄13年正月所領1万5千石に加増され、7月12日63歳で逝去した。その孫忠仰は元禄9年武蔵国金沢陣屋に住み、金沢藩主となり代々丹後守、長門守、主計頭を称した。 |
米倉丹後守の墓