善念寺 |
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武田勝親の墓
勝親の父は武田信玄の子勝頼といわれています。信玄の死後勝頼は天正3(1575)年長篠の合戦で織田・徳川連合軍の鉄砲隊のために大敗してしまいます。天正10(1582)年の天目山の戦いで敗死したため、勝頼の子勝親は甲斐国から逃げ、当寺西摂津の戦国大名であった池田信輝をたよって富田(現在地)の地に住みついて亡くなったといわれています。史実と不明の部分が多いのですが、勝親は「甲斐国志」では「武田勝頼の第3子で、勝親は勝三または勝近ともいう」とあり、墓碑の銘文の撰者は山県長周といわれ、彼は武田信玄の勇将山県昌景の後裔ともいわれています。「国志」編纂作業より以前に墓が建立されておるために、なんらかの結びつきがあるのでしょう。 |
尼崎の善念寺に武田勝親の墓があるとのことで今回立ち寄りました。武田勝親というのは武田勝頼の嫡子であるとのことでした。善念寺というお寺は場所が分かりづらく現地に到着してみると外見はお寺ではなく普通の住宅でした。玄関の前に人がいたので武田勝親の墓を見に来た旨話しましたが、善念寺の方は病気とのことでお墓を参拝しに来た人たちは勝手に庭のほうにまわって見ても良いとのことでしたので門を開けさせていただいてお墓を参拝させて頂きました。お墓の近くには立派な説明看板もありました。先ほどの人の話では、お寺の方は武田姓であり、武田勝親の子孫の方であるとのことでした。 武田勝親の墓 武田勝親の墓
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→東陽院
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