恩昌寺 |
2013年09月07日 |
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慈眼山恩昌寺の由緒は、寺記に「開基武田勝頼公息女天正9年辛巳年開闢」とあり、甲斐国志には「天正九年武田勝頼ノ女草創ス法諡紅暎林葉大姉ト云フ」また、「紅暎林葉大姉、逸見中条村上野恩昌寺ニ碑アリ勝頼ノ女ト云伝フ、年月詳カナラズ」と記され、韮崎市史には寛永19年に至り片嵐清泰寺十世隆山泰育和尚が、無縁仏となった勝頼の息女を哀れみ息女を開基とする一寺を創して恩昌寺と名づけ、自身は開山となり息に恩昌寺殿紅暎林葉大姉の法諡をおくったものとも述べられている。
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2007年01月07日 |
新人物往来社の定本武田勝頼によると、武田勝頼の子息には信勝以外に次の6人が紹介されています。 |
武田姫の墓
慈眼山恩昌寺の由緒は、寺記に「開基武田勝頼公息女天正9年辛巳年開闢」とあり、甲斐国志には「天正九年武田勝頼ノ女草創ス法諡紅暎林葉大姉ト云フ」また、「紅暎林葉大姉、逸見中条村上野恩昌寺ニ碑アリ勝頼ノ女ト云伝フ、年月詳カナラズ」と記され、韮崎市史には寛永19年に至り片嵐清泰寺十世隆山泰育和尚が、無縁仏となった勝頼の息女を哀れみ息女を開基とする一寺を創して恩昌寺と名づけ、自身は開山となり息に恩昌寺殿紅暎林葉大姉の法諡をおくったものとも述べられている。 |
ここに書かれている文章によるとこの恩昌寺の庭園に姫の墓があるとのことでしたので本堂の裏側にまわってみましたが一般の檀家の墓がありましたが庭園を発見することはできませんでした。その後本堂に向って右側にお寺のお宅の入口らしきところがあったのでそこで呼び鈴を鳴らしてみたらお寺の方が出てきてくれました。お話によると、この石碑に書かれている通りとのことであり、武田勝頼の娘のお墓がこの境内のどこかに確かにあるもののそれがどこにあるかは分からないとのことでした。 |
→東陽院
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