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山梨県韮崎市

常光寺

2013年09月07日

 
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この寺は、初期武川衆の一人、青木十郎常光が開基し、青木氏の武威が隆盛ならんことを念じて武隆山と号した。はじめは真言宗であったが、後に常光七世の子孫尾張守満懸(信定ともいう)が、雲鷹玄俊(正覚寺開山)の弟子海秀玄岱和尚を開山に迎えて、曹洞宗寺院として中興開山した。最初の開基常光は甲斐守護一条源八時信の孫に当たる。満懸は、武田信縄・信虎・信玄三代に仕えて功多く、その嫡男兵部少輔重満(信立)も、武川衆の旗頭として、信玄の弟左馬助信繁を補佐し、武勲を立てている。
武田氏滅亡で浪人となったが、子息信時とともに徳川家康に仕えた。青木氏の禄高は五百八十石、信時の三代後に江戸へ移ったが、始祖十郎時光から信安までの十一代は、青木の屋敷に住んで、常光寺に葬られた。その墓所は法堂の裏山に設けられ、韮崎市指定史跡となっている。また信時の弟兵部丞信俊は柳沢家を継ぎ、その孫が柳沢美濃守吉保である。
(甲斐百八霊場より)



2007年11月18日

常光寺に向かう途中、道路を歩いていたご婦人に常光寺の場所を尋ねたところ、その方はちょうど常光寺の方で、すぐ近くまで来ていたことが分かりました。入り口の前に車を止めて中に入っていきました。入り口の左側に看板があってお寺のことや青木氏のことについての説明が書いてありました。それを読んでから階段を登っていきました。立派な本堂があって、向かって左のほうに行ってみると大きな池のある庭があってその上のほうには一見何かの動物が支えているように見える石灯篭が印象的でした。お地蔵様があって小さな鐘がつけるようになっていたので鐘をついてお参りしました。そのまま本堂を左からまわりこんで裏のほうに行ってみましたがフェンスがあってそれ以上行くことはできませんでした。本堂に戻ってきてお寺を訪ねてみると住職と思われる方が出てきて、青木氏のお墓は本堂の左側からずっとまわりこんで行ってちょうど本堂の裏側にあるとのことでした。先ほどのフェンスのところから更に裏のほうへ行くべきだったのでした。彼の話ではサルが出てくるのでお墓が倒れているかもしれないとのことでした。このフェンスは猿除けだったのですね。そしてもう一度本堂の裏に行ってみると確かに立派なお墓がいくつか並んでいました。お墓の領域だけはこちら側からもフェンスを越えていかないといけないのでフェンスの扉を開けて中に入りました。

甲斐守護一条源八時信の孫、青木十郎太常光の開基した寺である。常光7世の裔、尾張守満懸は、武田信縄・信虎・信玄に仕え、その嫡男、兵部少輔重満は武川衆(ここ周辺に割拠し同族のよしみをもって堅い党的結合で成り立った武士団)の旗頭として信玄の弟、左馬助信繁を補佐し、いずれもいたるところで武勲を立てた。
重満は武田氏滅亡後、他の武川衆とともに徳川家康に仕え、その子兵部丞信俊は武川衆柳沢家の跡を継いだ。信俊の孫がかの5代将軍綱吉の側用人を務めた、柳沢美濃守吉保である。
青木氏の祖十郎時光から常光と11代はこの地で生涯を終え常光寺の青木氏墓所は市の史跡として指定されている。また当寺所蔵の柳沢吉保画像・念仏図付画像寄進状・着色達磨像の3幅は吉保の意思によって、子息吉里が正徳5年に寄進したものでいずれも市文化財に指定されており、吉保自筆で「連籌帷幄決勝千里還笑子房錯費工韜畧従来廖廓裏」とある。将軍家補佐の任を全うした大老柳沢吉保の見識を窺うに足る名言である。
(看板資料より)

青木氏歴代の墓

 
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