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広島市

銀山城(武田山)


2009年08月11日

銀山城(武田山山頂)からの眺め

鎌倉時代初期、旧祗園町一帯には、安芸国内から選ばれてくる物資の保管倉庫(倉敷地)が集中していました。また、この地域は、古市、今津などの市場や、港町で賑わい、安芸国の政治、経済、交通の大変重要な場所を占めていました。
こうした要衝をおさえるため、承久の乱(1221年)で手柄をたてた甲斐(山梨)守護武田信光は、安芸守護職に任命され、守護所を武田山南麓に構えました。その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えられています。銀山城はこれ以降、天文10(1541)年大内氏の命を受けた毛利元就らに攻め落とされるまで約300年間、太田川中、下流域を中心として安芸国支配を進めようとした武田氏一族の一大拠点として重要な役割を果たしていました。
現在、銀山城跡には、斜面を削り取り、平らにした50近くの郭の跡や堀切などが残っています。特に中腹の要所に設けられた御門跡とよばれる跡には、通路を直角にとる鍵の手の石積みを残しており、近世城郭の桝型の原形として大変貴重なものといわれています。このように広島市域で最大の規模をもつ銀山城は構造的にも極めて優れており、広島県を代表する中世の山城といえます。
(看板資料より)

標高250m以上は「広島県史跡」に指定されています。ここにある城址は今から約700年余前、承久の乱の戦功により安芸国の守護に任命された武田信光の4代後裔武田信宗が築いた遺跡で、その名を銀山城(金山城とも書く)といいました。信宗は甲斐国に住み、城番を置いて安芸国を支配しておりましたが、武田氏信にいたって初めて武田氏は甲斐から安芸国に下って来ました。
それから十数台、約300年にわたって武田氏はこの城を根拠地として、近郷の香川、熊谷、吉川氏等の豪族を従え、勢力を振っていましたが、やがて戦国時代に入ると防長2国を根拠として非常に有力であった大内氏に、続いて毛利氏に圧迫せられ、ついに今から400年ばかり前、天文年間に武田氏は滅びてしまいました。その後、大内氏はこの銀山城に城番を置いて佐東郡を支配していました。大内氏滅亡後も毛利元就はこの地を隠居所としたということです。
(立専寺でもらった資料より)


馬返し

ここから先は城内への通路が馬を使えないくらいに急に険しくなっているので、この地を「馬返し」と呼んだと思われます。またここは、城全体から見ると南東方面の端部に位置し、大手道の防備の役目を狙っていたものと思われます。
(看板資料より)


御門跡

ここは銀山城の南麓の出入り口にあたり、城内への門があったと伝えられるところです。かつては道路を直角にとる鍵の手に石積みがあったと思われ、この石積みで囲まれた部分は近世の城郭で桝形とよばれる防御施設にあたり、その原形として注目される遺構です。
(看板資料より)


城跡(千畳敷)

館跡


観音堂跡

ここは、城跡の中心部から西南方向に少し離れた所に位置する郭群のひとつです。観音堂が建っていたと伝えられるところからこう呼ばれていますが、本来は郭として城の搦手の防御の役目を担っていたものと思われます。
(看板資料より)


馬場跡


広島に来て一番最初に武田山に登ることに決めていました。天気が良かったのと、一番元気なうちに登っておきたかったのです。
武田山憩いの森の駐車場に車を止めて歩いて行きました。登山口のところに「武田山ルート案内図」があったのでこの写真を撮っておいたのですがこれが役に立ちました。途中何度も方向が分からなくなってしまいその都度デジカメで撮った「武田山ルート案内図」を見直して進むべき方向を確認することができました。
主なルートは、憩いの森→馬返し→御門跡→城跡→山頂(館跡、武者溜り、犬通し)→観音堂→上高間→下高間→馬場跡→見張り台→憩いの森です。
馬返しから御門跡付近にきたところで既に大汗をかいてしまい汗が目に入ってしみるほどでした。それから久しぶりの夏の山城攻めだったので要領を得ず、蜘蛛の巣に翻弄されたのでした。登りに50分程度、下りにも同じくらいの時間を要しました。規模の大きな山城でした。途中突然雨が降ってくることもありましたが基本的にいい天気で頂上からの眺めは最高でした。

 


武田氏の墓

 

 
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