信玄の代よりの重臣、土屋昌次31歳は第2の馬防柵を突破し、第3の柵に辿りついた時、鉄砲により討死した。碑は、盛土の上の台石にある。高さ133センチ、幅100センチの野面石であり、「土屋右衛門尉昌次之碑」をある。大正3年5月、長篠古戦場顕彰会の建立11基の1基として建立された。
土屋の碑の横に、平成11年3月、設楽原をまもる会が『藷山随筆』により再建した「従士温井左近昌国之碑」がある。
随筆に「三州設楽郡富永荘新間郷の羽根といふ所に甲斐の忠臣主従の墓があり、高さ1尺5寸許りの野面石に左の如く書き付有之候。土屋右衛門直村 従士温井左近昌国之碑」とある。
土屋昌次は直村とも信近とも名乗り、永禄4年の川中島の戦いで信玄に仕え、上杉軍の信玄本陣猛攻に応戦して信玄を守った。軍功により、武田家譜代衆17家の一つである土屋の姓を許され、金丸姓より改めた。設楽原の敗色濃い武田勝頼軍の殿を守るため、「自分は信玄が亡くなった時に殉死しようとしたが、高坂弾正に諌められて不本意ながらも今日まで命長らえてきた。しかし本日ただいま討死つかまつる」といい残し、取って返して第2の柵を破り、第3の柵に辿りついた時、鉄砲により落命した。
従士温井は手早く主君直村の首を切り、戦場を去ってこの所まで来たが、ここも既に安全地帯ではなかったため、ここに首を埋め、自分も腹をかき割って殉死した。
この2つの碑の前に、高さ290センチ、幅120センチの板碑「忠誠」が立っている。碑は「公爵徳川家達篆額 見危致命 赤心報恩 流風遺俗 干今猶存 子爵土屋正直君建碑干其高祖墓側嘱余乃題之云 大正6年6月 梅窓杉浦重剛」とあり、東京の子爵土屋正直の建碑である。
金丸筑前守虎義の五男惣蔵は、亡き兄昌次の後に土屋を継ぎ、勝頼に仕え武田家滅亡となった田野に「片手千人切り」をなして殉死した。
(東三河の史跡めぐりより) |