馬防柵 |
2013年07月07日 |
設楽原決戦場祭りの当日、馬防柵周辺では地元の小学生や鉄砲隊などによる長篠・設楽原合戦の演舞が行われました。各方面から織田軍、徳川軍、武田軍に扮した小学生や中学生が集まり、鉄砲隊や馬に乗った子供たちも集結。子供たちは自分たちで作った甲冑や鎧を身に着けていました。 |
2013年07月06日 |
設楽原をまもる会は昭和55年、地元の人々が中心になって発足した。翌年、まもる会の第一期事業として、馬防柵の一部が構築された。柵は「長篠合戦屏風」「永禄墨俣記(前田家文書)」の馬止め柵などを参考にして再現した。柵に織田軍様式と徳川軍様式の虎口(出入り口)の設け方の違いを区分して構築した。 |
2013年の設楽原決戦場祭りに参加すべく、前日に新城に入りました。長篠城、馬場信房公の墓を参拝した後、設楽原歴史資料館に寄り、馬防柵に来ました。
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2006年05月05日 |
馬防柵は柳田前激戦地から更に西に進むと向って右側に見えてきます。そこに向って入って行ける道があるので車で行くことができます。馬防柵は三段に渡って構築されていたとのことですが再現されているのは一段のみです。かるたでつづる設楽原古戦場によれば、馬防柵構築奉仕作業により、昭和56年に第一期構築として織田陣、続いて昭和58年に第二期構築として徳川陣の馬防柵の再現を実施したとのことでした。
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2003年10月12日 |
天正3(1575)年「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。 設楽原歴史資料館から連吾川を渡って柳田前激戦地を通過してすぐに右に入る道があり、案内看板もあるのですぐに分かると思います。上の馬防柵の写真は柵の外側から撮ったものですが、内側から武田軍の陣地を見ると天王山の内藤昌豊の陣地付近を見ることができ、思ったより近くて驚きました。両軍の陣地はかなり接近していたようです。たとえ鉄砲を持って柵に守られていたとしても、戦国最強武田軍団を目の前にしてその恐怖心は物凄かったような気がします。逆に武田軍はなぜ柵に向かって無謀な突進を繰り返したのでしょうか?
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1999年11月23日 織田・徳川連合軍と武田軍は連吾川をはさんでお互いに対峙したが、連合軍側は馬防柵を設置して武田の騎馬隊の突撃を防いだといわれている。その馬防柵が連吾川に復元されていた。織田方と徳川方ではその設置方法が異なっていたらしくその様子が復元されていた。 |