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愛知県新城市

竹広激戦地

2014年08月16日

設楽原の戦
天正3(1575)年5月8日、武田勝頼は1万5千の兵を率いて長篠城をとり囲んだ。城主奥平貞昌は城兵500とともによくこれを防ぎ、14日、鳥居勝商の決死的な脱出により、織田、徳川の援軍を得ることに成功した。20日、武田軍は3千の兵を長篠城の押さえに残し、織田、徳川連合軍3万8千の布陣するこの設楽原に進撃した。
戦いは5月21日(陽暦7月9日)連吾川(左)をはさみ、織田、徳川の鉄砲隊と武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返した。3千挺の鉄砲と馬防柵の前に武田軍はほとんどの勇将、智将を失う惨敗を喫し、勝頼はわずかの兵に守られて甲州へ落ちのびていった。
(看板資料より)

 



2003年10月12日


設楽原の戦
天正3(1575)年5月8日、武田勝頼は1万5千の兵を率いて長篠城をとり囲んだ。城主奥平貞昌は城兵500とともによくこれを防ぎ、14日、鳥居勝商の決死的な脱出により、織田、徳川の援軍を得ることに成功した。20日、武田軍は3千の兵を長篠城の押さえに残し、織田、徳川連合軍3万8千の布陣するこの設楽原に進撃した。
戦いは5月21日(陽暦7月9日)連吾川(左)をはさみ、織田、徳川の鉄砲隊と武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返した。3千挺の鉄砲と馬防柵の前に武田軍はほとんどの勇将、智将を失う惨敗を喫し、勝頼はわずかの兵に守られて甲州へ落ちのびていった。
(看板資料より)

徳川家康と山県昌景の陣地の間に位置し、最大の激戦地であったと思われるところです。甲陽軍鑑によれば最初の武田軍の突撃で武田方は勝利し、徳川、織田の軍勢を馬防柵の中へ追ったそうです。織田の軍勢はその後もなかなか柵からは出てここなかったそうですが、徳川軍は再び柵からうって出て武田軍との死闘を繰り返したそうです。織田信長の援軍を得た家康は信長の前では自軍の犠牲をかえりみずに戦わざるを得なかったのでしょうか。竹広の地は両軍の死闘が行われる運命だったのかもしれません。

 

 
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