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静岡県清水町

戸倉城

2014年01月18日

戸倉城復原図

戸倉城は戦国時代北条氏綱(1486〜1541)が築いたという。主曲輪は本城山の頂上にあって、東西40メートル・南北30メートルの平場で、もとは土塁がめぐっていたという。東側に一段下がって袖郭があり空掘で仕切られる。南側には見張り台の役目を果たした天狗岩がある。東曲輪は東方にのびる尾根上にあり、左右から切り込んだ三本の空堀によって、屈折した平場をつくる。先端の南東斜面には三段の平場と、反対の北東斜面には空堀切と二段の平場と、その最下段には裾郭がある。
 また主曲輪から北西に下る斜面には空堀を左右からくい込ませた小郭が連続してつくられ最下段左手より狩野川へ向かって空堀があった。大手登り口は龍泉寺山門左手にあって、数段の平場を経て右にまがり主曲輪に至るが、その中ほど左右に空堀と土橋がある。西曲輪は本城山西端下で空堀切によって区切られる。それにより左右に九本の竪空堀と陵部に小郭が八幡神社裏まで連続している。八幡神社西側の県道を越えて摩利支天郭があり、ここから烏帽子岳太鼓櫓まで、空堀切と平場が尾根上にある。外原出口にも小郭があった。城主の居館は龍泉寺内であったという。
 永禄11(1568)年から元亀2(1571)年にかけて駿河に攻め込んだ武田信玄と北条氏は、この戸倉城で戦った。また天正8(1580)年、武田勝頼は沼津三枚橋城に本拠をおいて戸倉城を攻撃した。北条方の城将笠原新六郎はよく城を守ったが、天正9(1581)年武田方に寝返って城は武田方のものとなった。天正10(1582)年、武田氏の滅亡と共に戸倉城は再び北条氏のものとなった。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城征伐が始まると、北条氏は戸倉城を捨てて韮山城へ退いたという。
(看板資料より)

山頂広場

山頂広場がある本城山山頂には、かつて北条氏綱によって戸倉城が築かれていました。北条氏綱は北条早雲の子で、早雲の跡を継いで活躍した戦国時代の大名です。駿河の今川氏から伊豆を守るために築かれていた城ですが、天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると、その城を守っていた城兵が韮山城、山中城へ撤収したため、廃城になったと伝えられています。
また本城山と狩野川にはさまれた地域は、弥生時代にかけてかなり大きな集落があったと考えられる矢崎遺跡があり、東日本としては珍しい、青銅の釧(くしろ。腕輪)をはじめとする多量の遺物が出土しています。
(看板資料より)

 



2005年12月29日

戸倉城復原図

戸倉城は戦国時代北条氏綱(1486〜1541)が築いたという。主曲輪は本城山の頂上にあって、東西40メートル・南北30メートルの平場で、もとは土塁がめぐっていたという。東側に一段下がって袖郭があり空掘で仕切られる。南側には見張り台の役目を果たした天狗岩がある。東曲輪は東方にのびる尾根上にあり、左右から切り込んだ三本の空堀によって、屈折した平場をつくる。先端の南東斜面には三段の平場と、反対の北東斜面には空堀切と二段の平場と、その最下段には裾郭がある。
 また主曲輪から北西に下る斜面には空堀を左右からくい込ませた小郭が連続してつくられ最下段左手より狩野川へ向かって空堀があった。大手登り口は龍泉寺山門左手にあって、数段の平場を経て右にまがり主曲輪に至るが、その中ほど左右に空堀と土橋がある。西曲輪は本城山西端下で空堀切によって区切られる。それにより左右に九本の竪空堀と陵部に小郭が八幡神社裏まで連続している。八幡神社西側の県道を越えて摩利支天郭があり、ここから烏帽子岳太鼓櫓まで、空堀切と平場が尾根上にある。外原出口にも小郭があった。城主の居館は龍泉寺内であったという。
 永禄11(1568)年から元亀2(1571)年にかけて駿河に攻め込んだ武田信玄と北条氏は、この戸倉城で戦った。また天正8(1580)年、武田勝頼は沼津三枚橋城に本拠をおいて戸倉城を攻撃した。北条方の城将笠原新六郎はよく城を守ったが、天正9(1581)年武田方に寝返って城は武田方のものとなった。天正10(1582)年、武田氏の滅亡と共に戸倉城は再び北条氏のものとなった。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城征伐が始まると、北条氏は戸倉城を捨てて韮山城へ退いたという。
(看板資料より)

山頂広場の展望台

山頂広場がある本城山山頂には、かつて北条氏綱によって戸倉城が築かれていました。北条氏綱は北条早雲の子で、早雲の跡を継いで活躍した戦国時代の大名です。駿河の今川氏から伊豆を守るために築かれていた城ですが、天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると、その城を守っていた城兵が韮山城、山中城へ撤収したため、廃城になったと伝えられています。
また本城山と狩野川にはさまれた地域は、弥生時代にかけてかなり大きな集落があったと考えられる矢崎遺跡があり、東日本としては珍しい、青銅の釧(くしろ。腕輪)をはじめとする多量の遺物が出土しています。
(看板資料より)

本城山登り口

北駐車場に車を止めて、山頂への登り口に進んで行くと、いきなり険しい岩が立ちふさがります。そこから整備された階段を登っていきますが、お年寄りには少しきついかもしれません。途中道が二又に分かれますが、右に行くと山頂広場なので右に向いました。すぐに山頂広場につきますが、そこには大きな建造物があって怪しい雰囲気ですがこれは展望台です。一番上まで登ってみると戸倉城の周囲の様子が良く分かります。狩野川が蛇行している地形をうまく生かした場所であることがよく分かります。

金毘羅神社

山頂公園から奥に続いている道を降って行きましたが、金毘羅神社を経て途中やはり切り立った岩などを見ながら反対側に降りました。左側に歩いて行くとお墓が出現しますが、更に進むと龍泉寺にたどり着きます。ここが城主の居館だったのではないかとのことでした。更に狩野川沿いに進み、東駐車場から再び山頂広場に向って山を登りました。さきほどの二又のところにでたのでそこから降って北駐車場に戻りました。

龍泉寺


龍泉寺から狩野川(左端の山が戸倉城)

現地の案内板に書かれている通りこの城は北条方の笠原新六郎が守っていたが、天正9(1581)年に武田勝頼に寝返ってしまいました。天正9年といえば武田家が滅亡する前年で、既に武田軍は落ち目になっていたであろうと思われるのですが、なんで笠原新六郎はそんな状態の武田方に寝返ったのか不思議です。
甲陽軍鑑では、北条氏政が武田勝頼と対峙中に氏政と連携して徳川家康が攻めて来たが、武田勝頼は北条氏政に構わずに徳川家康を撃退させたり、上州での武田勝頼の膳城素肌攻めなどの武田軍の活躍の様子から、伊豆方面での北条方の最前線であった戸倉城の笠原新六郎は武田方に寝返ったと書かれていますが、一方、新田次郎氏は小説武田勝頼の中で、「武田が滅んだ後、織田・徳川は必ず関東に兵を進めてくるに違いない!そうさせないためにはなるべく武田を長持ちさせることだ!従って北条氏政と松田憲秀は、徳川を抑制するために伊豆地方を武田に寝返りさせようとかねてから考えていた」のであり、笠原新六郎が武田に降ったのは北条氏政の命によるものと信じていると記載しています。


蔵六寺

 

 
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