←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県伊豆の国市

信光寺

2010年01月23日

信光寺はもと中伊豆町宮上の最勝院の末寺であり、改宗前は真言宗であったと記す。
本尊は秘佛十一面観世音菩薩を安置し、境内には太子堂(弘法大師の小像を祀る)があり「空海」の加持井と称する井戸が残ることなどからも察せられる。
縁起では「武田五郎信光入道光蓮」の開基である。
信光寺本堂の左手に武田五郎信光公の廟所(宝篋印塔)がある。武田氏は清和源氏、源義家(八幡太郎)の弟、義光(新羅三郎)を祖とし、義光の三代後の信義のとき武田氏を名乗る、つまり、源頼朝直系の源氏傍系の一派といはれる。信義の四男である有義を擁立して将軍頼家を倒そうとした梶原景時の乱の後に四男有義は失脚し、五男の信光は甲斐源氏の惣領職を相続したという。武田信光を名乗るのはこの頃からで、それ以前は石和又は井沢を称していた。
武田五郎信光については、「吾妻鏡」「平治物語」「鎌倉大草紙」「源平盛衰記」のほかにも「甲斐国史」などの多くの記事がある。「鎌倉大草紙」には信光について、尼将軍「北条政子(頼朝の妻)」の時、伊豆の国を給わり、12年間伊豆に居住したと記す。「源平盛衰記」には信光は特に流鏑馬の儀に通じ、四天王の一に数えられ、後に執権時頼に伝授するともある。甲斐の国の中郡を所領とし、伊豆の国の守護職に任ぜられ、又、安芸の国(広島)の守護職も勤め、晩年は「伊豆入道光蓮」と名乗った。
「信光寺縁起」には信光、鎌倉より頼家の病状伺いに修禅寺に赴き、鎌倉への帰路ここに到って頼家の殺された事を聞く、信光すでに事了るを嘆きて入道し守山の麓に小庵(方広庵)を結び、出家して「光蓮」と称し頼家の菩提を弔ったという。縁起では「月照信光大居士」・応保2(1162)年〜宝治2(1248)年、87歳と伝えている。
信光の名前から信光寺と称す。
(パンフレット資料より)

武田信光公廟所

カーナビで目的地をセットして行ったので場所はすぐに分かりました。本堂は鉄筋コンクリート作りのようでした。本堂に向って左奥に西国三十三番観音石仏があり、更にその奥に武田信光公廟所がありました。その後お寺の方に資料を頂くことができました。


西国三十三番観音石佛

嘉永4(1851)年、当山三十二世一応實全和尚の時、本堂裏の岩山に始めて西国三十三番観音霊場の本尊を石佛として建立す。その後60年を経て多く破損するに到れり、時、明治43(1910)年当山四十一世橋本真順和尚の発願により、二代目の三十三番観音石佛を岩山に安置するも、平成15年現在、岩山の石段を登るのが危険であることなどから、この度岩山より下ろし本堂左側一ヶ所に三十三体を整備安置されたことでお年寄りや子供達でも楽に参拝可能となった。
又、当山四十四世伊藤正義和尚は昭和59年から62年の4ヶ年にわたり、近隣御寺院方と檀信徒30余名共々、西国三十三番観音霊場を参拝し、その折各寺院より小石を少量づついただき当山三十三番観音石佛のもと納石す。此の石佛をお参りすることにより「西国三十三番観音霊場順拝」のご利益があるといわれております。
(パンフレットより)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→