右前方の山を通称「龍城山」といい、ここが戦国時代の代表的な平山城という形式の城として知られる「韮山城」の跡である。韮山城の最初の築城については明らかではないが、「北条五代記」によると、文明年間(1469〜1486)堀越公方・足利政知の家臣外山豊前守が城をつくたのが始まりとされている。その後、延徳3(1491)年、駿河興国寺城にいた伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が堀越御所の内部の争いにつけ込み、政知の子、茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、韮山城を本格的に築城したといわれている。早雲はこの地を本拠地として小田原城を奪い、後に韮山にもどり、永正16(1519)年に88歳で没するまで33年間ここに住んだ。
現在の韮山高校の校舎の付近を今も御座敷といい、早雲の居館跡であろう。小田原北条氏の西の守りとして韮山城は重きをなした。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐のときは、三千余の将兵をもってこの城を守り通したのである。
北条氏規の城を退いた後、徳川家康は内藤信成を城主としていたが、慶長5(1600)年に移封により韮山城は廃城となった。山の高い所に本丸、次いで二の丸、権現平、三の丸、塩蔵跡や土塁、空掘、内堀などが残っている。
(看板資料より)
韮山城は北条早雲に関するいわれが数多くあるお城ですが、今回訪れたのはやはり武田に関係があったからです。
元亀元(1570)年、8月に武田軍は駿河に攻め入り、信玄は黄瀬川に本陣を置き、軍勢を分けてそのうちの一隊がこの韮山城を攻めています。攻撃に参加したのは武田勝頼、山県昌景、小山田信茂らで、城外の町庭口で城方の北条氏規の軍と戦っていますが結局武田軍は韮山城を攻略することができずに撤退しています。
この時点では既に駿河の主要部分は武田軍が占領していましたが、徹底的に北条を攻め立てることによって武田の恐ろしさを思い知らしめ、後の甲相同盟復活に至ったと思われます。実際に戦いがあった町庭口がどこにあるのかは不明ですが、新田次郎氏の小説武田信玄によればこのとき韮山城には北条氏政がいて箱根の山には北条の大軍が充満していたということになっていますが、他の資料には氏政は山中城にいたという記述もあります。この当時北条方は前年には本拠地である小田原城を包囲され三増峠で大敗を喫しており、宿敵上杉謙信と同盟を結んで本格的に武田を敵に回していましたが謙信との同盟はまったく役に立っておらず、迷っていたのだと思います。当時信玄は北に上杉、東に北条、南に徳川と三方を敵に囲まれていて一番大変だったときだったにもかかわらず、むしろこうやって他を圧倒していた状況であったことを思うとその政治力に驚かされます。
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