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静岡県清水町

泉頭城

2010年01月23日

貴船神社

所在 清水町伏見泉頭
古来より、泉川の清冽な湧水にちなみ京都市左京区貴船川上流の深山幽谷の地にある貴船神社から御霊分けされたものである。
祭神はたかおかの神で水の神である。この神は折雨、止雨の神で雨の少ない時は雨を降らし、雨の多い時はこれを止める新たかな神である。
尚、この地は戦国時代に北条氏が造った泉頭城西の丸にあたる。
(看板資料より)


柿田川

永禄12(1569)年頃の様子は『北条五代記』に「氏康は信玄にげ行由聞、駿河国中、蒲原・高(興)国寺・三枚橋・戸倉・志師(獅子)浜・泉頭・長久保、七つの城に人数を籠(こめ)おき、氏康父子小田原へ帰陣せり」とあることから、北条方の出城だったことがわかる。天正8(1580)年になると、荒川豊前守・大藤長門守・多目権兵衛をはじめ、足軽大将の高橋氏・市南氏が各百騎ずつで守衛したという(『駿河記』)。天正9年、北条方の戸倉城が武田勝頼に誘降されると、戸倉の城兵(戸倉衆)としばしば戦ったことが、『甲州古文書』によって知ることができる。「自泉頭出足軽候之処、為如安井次大夫、戸倉衆出合城内へ追入、近辺之郷村放火之由心地好候」とある。しかし、天正18年、小田原城落城とともに廃城となった。
(日本城郭大系より)

泉頭城跡というのがあって現在は柿田川公園になっているとのことで寄ってみました。現地に来てみて柿田川公園というのは、湧水がある公園で以前から知っていた場所でした。ここが城跡でしかも武田勝頼に所縁のある場所であるとは知りませんでした。既に遅い時間になっていたのが残念でしたがなんとか写真撮影することができました。駐車場に車を止めて案内通りに歩いてまわりました。あちこちで水が湧き出していました。現地の説明板の絵図によると駐車場の周辺が本曲輪で公園の方が西曲輪のようでした。

泉頭城は柿田川の水源地泉頭に築かれた戦国時代(15〜16世紀)の城郭です。城域は東西400m、南北500mあり二ノ洞と三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これをとり囲んで北ノ曲輪、東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪、小郭(おぐるわ)、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノ口出丸が築かれています。それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空掘で防禦されており、土橋と木橋で結ばれていました。
この城は戦国時代の終り頃には小田原後北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目をはたしていました。永禄12(1569)年後北条氏は家臣多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、沼津三枚橋城や清水町の戸倉城、三島の伊豆徳倉城と連絡して、甲斐武田信玄の侵攻に備えました。
天正8(1580)年武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋、市南の足軽大将が各々百騎づゝ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡していました。天正9(1581)年戸倉城が武田軍に降参すると泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手によって焼き払われてしまいました。天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は韮山城と山中城へ引上げました。
元和元(1615)年徳川家康は泉頭の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め家臣土井利勝、本多正純に、隠居御殿の城を造営することを命じましたが、元和2(1616)年家康が没したので取り止めになりました。その後城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になりましたが、大正の頃まで城跡はよく残っていたということです。
(看板資料より)

 

 
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