←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県沼津市

興国寺城跡

2014年01月18日

興国寺城は戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です。
早雲ははじめ伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績に寄りこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし伊豆国の領主となって韮山城に移り、戦国大名へと成長しました。
その後、興国寺城は、駿河、甲斐、伊豆の境目に位置していたために今川、武田、後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わりました。
天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城域を拡大しました。永禄年間には駿河に侵入した後北条の城となり、武田信玄の攻撃を退けました。
元亀年間の武田・後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪の持城となりました。天正10(1582)年に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城し、徳川方の城となり、家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将中村一氏の家臣河毛重次が城主となりました。
関が原の合戦後には、三河三奉行の一人で「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景が城主となりましたが、康景の逐電により廃城となりました。
(看板資料より)


天野三郎兵衛康景
天野三郎兵衛康景は元の名を景能といい、天文6(1537)年三河国に生まれ、徳川家康に仕えました。岡崎三奉行の一人に任ぜられ、「彼是偏無しの三郎兵衛」と評される公平な人物でした。後に家康の「康」の字を拝領して康景を称し、慶長6(1601)年関ヶ原の合戦後1万石を与えられ、興国寺城主となりました。
伝えられるところでは、慶長12(1607)年、家来の足軽が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きました。これが天領の農民であったことから、康景と代官井出志摩守正次の争いになりました。家康の側近本田上野介正純は康景に足軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄て、行方をくらましてしまいました。このため康景は改易になり、興国寺城は廃城となりました。
その後、康景は慶長18(1613)年、相模国沼田村(神奈川県南足柄市沼田)で没しました。墓は沼田の西念寺にあります。
(看板資料より)


興国寺城は愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根上に立地しており、山の根を通る根方道と浮島沼を横断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点に当り、かつては伊豆、甲斐を結ぶ交通の要衝であった。
城郭の遺構を良く残しているのは古城と呼ばれるこの地域で、浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田堀に守られていた。古城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二の丸、三の丸の3曲輪から成る主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪によって構成されている。
本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、天主台と呼ばれる平坦部になっており、発掘調査によって2棟の建物址が検出され、礎石が残されている。西端も狭い平坦部が設けられ、西櫓台と呼ばれている。
本末は四方を土塁によって囲まれ、南は空堀で区切られていたが、現在南側土塁は崩され、空堀も埋められているが、ほぼ旧状をしのぶことができる。この部分に入口が設けられており、土橋また木橋があったと推定される。本丸の東南には土塁上に平坦部が設けられ、石火矢台と呼ばれていた。ここからは本丸土塁の裾を通って大空堀に抜ける小道が残されている。
二の丸は土塁がほとんど崩されており、三の丸との境界がはっきりしないが、かつては土塁によって囲まれ、空堀によって区切られていた。南側土塁中央に入口があり升形が設けられていた。
三の丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。かつては東南隅に大手口の虎口が設けられており、西北隅にも入口が設けられていた。
周囲の深田足入と呼ばれた泥田堀はほとんど埋められているが、ところどころ小さな池や沼として残され、そのおもかげをしのぶことができる。
(看板資料より)



2003年06月01日

興国寺城は戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です。
早雲ははじめ伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績に寄りこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし伊豆国の領主となって韮山城に移り、戦国大名へと成長しました。
その後、興国寺城は、駿河、甲斐、伊豆の境目に位置していたために今川、武田、後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わりました。
天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城域を拡大しました。永禄年間には駿河に侵入した後北条の城となり、武田信玄の攻撃を退けました。
元亀年間の武田・後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪の持城となりました。天正10(1582)年に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城し、徳川方の城となり、家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将中村一氏の家臣河毛重次が城主となりました。
関が原の合戦後には、三河三奉行の一人で「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景が城主となりましたが、康景の逐電により廃城となりました。
(看板資料より)

天野三郎兵衛康景
天野三郎兵衛康景は元の名を景能といい、天文6(1537)年三河国に生まれ、徳川家康に仕えました。岡崎三奉行の一人に任ぜられ、「彼是偏無しの三郎兵衛」と評される公平な人物でした。後に家康の「康」の字を拝領して康景を称し、慶長6(1601)年関ヶ原の合戦後1万石を与えられ、興国寺城主となりました。
伝えられるところでは、慶長12(1607)年、家来の足軽が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きました。これが天領の農民であったことから、康景と代官井出志摩守正次の争いになりました。家康の側近本田上野介正純は康景に足軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄て、行方をくらましてしまいました。このため康景は改易になり、興国寺城は廃城となりました。
その後、康景は慶長18(1613)年、相模国沼田村(神奈川県南足柄市沼田)で没しました。墓は沼田の西念寺にあります。
(看板資料より)

興国寺城
興国寺城は愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根上に立地しており、山の根を通る根方道と浮島沼を横断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点に当り、かつては伊豆、甲斐を結ぶ交通の要衝であった。
城郭の遺構を良く残しているのは古城と呼ばれるこの地域で、浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田堀に守られていた。古城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二の丸、三の丸の3曲輪から成る主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪によって構成されている。
本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、天主台と呼ばれる平坦部になっており、発掘調査によって2棟の建物址が検出され、礎石が残されている。西端も狭い平坦部が設けられ、西櫓台と呼ばれている。
本末は四方を土塁によって囲まれ、南は空堀で区切られていたが、現在南側土塁は崩され、空堀も埋められているが、ほぼ旧状をしのぶことができる。この部分に入口が設けられており、土橋また木橋があったと推定される。本丸の東南には土塁上に平坦部が設けられ、石火矢台と呼ばれていた。ここからは本丸土塁の裾を通って大空堀に抜ける小道が残されている。
二の丸は土塁がほとんど崩されており、三の丸との境界がはっきりしないが、かつては土塁によって囲まれ、空堀によって区切られていた。南側土塁中央に入口があり升形が設けられていた。
三の丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。かつては東南隅に大手口の虎口が設けられており、西北隅にも入口が設けられていた。
周囲の深田足入と呼ばれた泥田堀はほとんど埋められているが、ところどころ小さな池や沼として残され、そのおもかげをしのぶことができる。
(看板資料より)

西櫓台跡から本丸方向の景色

興国寺城は車を止めたところからすぐに北側に向かって天主台に登れるようになっており、そこから大空堀に下って再び登ったところは広くなっていてそのすぐ北側に新幹線が走っています。大空堀はその名の通りものすごく深くて大きな堀になっています。奥の方は崩れる恐れがあるので立ち入り禁止でした。新幹線の更に北側に城跡が続いているのかと思ったらそうではなくて城はちょうど新幹線のところまでで逆に車を止めたところが本丸でそこより南側に城が続いていたのだそうです。
武田軍が韮山城を攻めたときに信玄は馬場信春、高坂昌信らに興国寺城を攻めるよう命じているが城を落とすことはできず、更に翌元亀2(1571)年にも正月早々に垪加伊予守氏続父子の守る興国寺城を攻めたが再び失敗。しかしその年のうちに北条氏康が死亡した後に甲相同盟が復活して武田氏の城になったらしい。信玄も実力では落とせなかった城の一つである。

大空堀

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→