天正寺 |
2007年03月11日 |
天正10年仁科盛信公は高遠城にて戦没した。民衆は城主を慕い城址に寺を建て供養す。明治5年廃仏棄却により廃寺。同5年永平寺住職を迎えて再興、天正寺となる。 |
天正寺山門
この薬医門型式の山門は建立時の棟札から、元禄元(1688)年に寄進されたことがわかります。江戸時代中期には本堂の庭先に二層の山門が、庫裏のそばには冠木門(黒門)もあったようですが、現存するのはこの山門だけです。門柱にはケヤキ材を用い、その上に太い冠木をのせ、さらに脇柱を立てて威風を添え、かつては大板葺きという、禅寺にふさわしい純和様の質素で重厚な造りが特徴です。 |
仁科氏の居館跡とのことでしたが、境内には仁科城跡と掘られた大きな石碑がありました。お寺の人を呼んでお話を聞かせてもらいましたが、それによるとこの天正寺は仁科氏の居館跡とのことで、他には特に何もないとのことでした。 山門の写真を撮ろうと思ったところ突然上から雪が落ちてきて驚きました。落雪注意というのはこのことだったのですね。だんだん気温が上昇し始めて雪が落ちはじめました。 その後、次の目的地に向う途中に偶然北堀の案内板を見つけました。雪が積もっていて分かりづらかったのですが堀の規模だけでもずいぶん大きなものであったことが想像できました。 |
仁科氏居館北堀跡
この堀は、東西約186メートル、南北約120メートルに及ぶ仁科氏居館の、外堀北辺の一部である。昭和57年10月に行われた発掘調査の結果、幅約11メートル深さ約3メートル、片薬硯状の断面をもつ堀で、自然の凹地を利用し掘り深め、拡充整備した部分であることが、確認された。外堀にたたえる水は、居館の北西隅において御所川の水を引き入れていたが、東と南に傾斜する土地であるので一面の堀とはなり難く、段差のある何面かの堀を連ねていたと考えられる。この北堀はもとの姿をよく残しており、大正のはじめ頃にもなお水をたたえ鮒が棲み、子供達の遊び場となっていたようである。 |