1.この地は、信濃で最も息の長かった豪族・仁科氏の「居館跡」です。館の四至は、北辺126m、南辺189m、南北261mの梯子形で広大な高瀬川の河岸段丘上に、ほぼ四郭〜五郭に分かれています。
2.仁科氏の祖は、大和朝廷直径の古代民族・安倍氏であり、今から1500年以上の古代、大彦命とともに東征した。現新潟県能生町付近から信越国境の「三坂峠」(現小谷村)を越え、先ず、木崎湖北東の海之口に駐留。機を見て、木崎湖を天然の要害とし、同湖の西南に「森城」を構え、四至を固めました。
3.森城で力を蓄えた仁科氏は、以来、仁科御厨(伊勢神宮内宮領)を預かり、ここ館之内に館を構えました。さらに荘園を開発し、伊勢神宮に寄進して、その荘官となり、前後7世期間以上に亘って中世の大町を治めました。
4.国宝・仁科神明宮を伊勢から勧進、覚音寺(八坂村)に国宝千手観音を施入する等々、京都の文化を飽かずこの地に移入するために精魂を傾け進取の気概に満ちた先哲−それが仁科氏です。
5.続いて仁科氏は鎌倉時代に入ると、現大町市街地の天正院の地に居館を設け、疎水、開田、街区設定など今日の大町市の都市計画に先鞭をつけた唯一無二の名族として市民から尊崇されています。大町は仁科氏の里の名で知られ、「館之内」とは「館の内」から付けられた古名です。
(看板資料より) なかなか場所が分からず苦労しました。目印は館之内公民館です。公民館の前に案内板があります。公民館の前には道祖神?のようなものがたくさんありました。すぐ近くのお宅を訪問してお話を聞こうと思ったのですが詳しいことは分からず隣の人を紹介してもらいました。その方のお話によると仁科氏の居館はもともとここにあって、ここから天正寺の方に移っていったのではないかとのことでした。看板が古くなっているのでそろそろ作り直さなければという話もあるのだそうです。 |