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長野県大町市

盛蓮寺

2007年03月11日

大きな駐車場があってそこに車を止めて観音堂と本堂を見学しました。反対側に門があって正面と思われたのでそちらの方にも行ってみました。その後お寺の人にお話を聞いてみようと呼び鈴を押しましたが誰も出てきませんでした。お話を聞かせてもらえなかったので詳細は不明です。この時間になると雪はほぼ止んで気温も上がってきたのでどんどん雪が解けて屋根から落ちてきていました。

盛蓮寺の聖観音
盛蓮寺は、昔、大峰の中腹字山寺にあり、七堂伽藍も備わった大寺だった。この寺が山寺にあったころ、武田信玄の兵火に焼かれたことがあった。その時この観音像は、自分から飛んで寺の裏の蓮池に飛び込み、火の難を逃れたという。その後、戦いが終わって、村の衆が大勢で池から引き上げて寺に移そうとしても、重くてもう少しのところでどうしても上がらない。そこでやむを得ず引き返すと、それこそ軽くなるという。そこで皆で相談し、やはり観音様の意思に従うがよかろうとのことで、今の場所に観音堂を立てて安置した。この観音像の背はひどく焼けこげて、その時の兵火をものがたっている。一説に、この兵火が迫った時、だれかが背負って逃げ、蓮池に投げ入れて難を逃れた。その数年後、住職の夢枕にこの観音が立ったので、夢のお告げの通り池の中を捜してみたら、池底に沈んでいた。それを引き上げて観音堂に安置したという。
(大町市史・長野県の武田信玄伝説より)


盛蓮寺観音堂

真言宗源華山盛蓮寺は、もと高野山編照光院の末寺であったが、いまは京都智積院の末寺となっている。寺伝によれば、本寺はかって東方山中の字堂平にあったが、のち閏田東方山中の字山寺に移され、七堂伽藍を備えた寺院として栄え、清滝山盛蓮寺と号していたものを更に鎌倉時代中期に時の領主仁科盛遠によって現在地に移され、以来仁科氏の祈願寺であった。
観音堂の建立については、寺蔵古文書に文明2(1470)年と伝えており、様式手法上もその頃とみてよい。盛蓮寺観音堂は、桁行3間、梁間3間の寄棟造であるが極めて短い箱棟を載せているので、宝形造に近い姿となっている。
昭和40年の解体修理によって建立当時の状態に復元されたが、屋根は保存上茅葺形銀板葺としてある。
軒は一重で繁垂木とし、茅負、裏田を置く。四周に縁束を兼ねた軒支柱を立てまわして出の多い軒を支えている。側柱は大面取りの角柱で、面幅は柱幅の約7.5分の1に当り、これは鎌倉時代の面幅に近い。柱間は、正面中央間を両開き桟唐戸側面前端間を片引板戸とするほかは、総べて竪羽目板壁とする。(〜途中省略〜)
なお、観音堂本尊の木造如意輪観音坐像は鎌倉時代の造像とみられるが、補修のあとは著しく当時の像容を損っていることが惜しまれる。
(看板資料より)

 

 
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