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愛知県新城市

信玄祖師堂跡

2014年08月16日


「冥福を祈る武将の慰霊碑」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

想像を越えたおびただしい戦死者の姿は、戦いのむごたらしさと共に人の命のはかなさを、無言のうちに人々に語りかけるのであった。戦いの直後、村人による戦後処理はもとよりのこと、以降何回となく戦没者供養がそこかしこで行われたものと思う。特に戦いの翌6月に行われた蜂退治の大施餓鬼と松明さき、7月の家康主催の法要、その後行われた設楽家の供養塔建立と家臣丹沢氏の供養等、主なものだけでもかなりの数になる。
近年においては、合戦350年祭後の昭和5年10月、八束穂信玄病院初代院長牧野文斎翁は、日蓮宗に入信して信玄祖師堂を建て、その中に東三河数百名の会員の寄進になる戦没者の位牌を忠魂堂に安置した。
その開堂入魂式当日は、身延山81世杉田日布聖人を招いたため、沿道は高僧を迎える人で埋まり、幟や屋台店も並んで賑わった。
そして祖師堂主管に松原智信師を招き、毎月21日には例月祭、毎年5月21日には例年祭をねんごろに営んだ。
しかし、この祖師堂が昭和32年に廃止されるにともない、戦没者の位牌は富士市の本照寺に祀られている。
(かるたでつづる設楽原古戦場より)

 



2006年05月06日

設楽原歴史資料館から土屋昌次之碑に向う途中、天王山内藤昌豊之碑の向かい側あたりに信玄祖師堂跡があります。「かるたでつづる設楽原古戦場」によると、合戦350年祭後の昭和5年に信玄病院初代院長牧野文斎翁は日蓮宗に入信して信玄祖師堂を建て、その中に戦没者の位牌を安置したとのこと。しかし昭和32年に祖師堂が廃止されてしまい、戦没者の位牌は富士市の本照寺にまつられているとのこと。

 



2003年10月12日


「冥福を祈る武将の慰霊碑」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

内藤昌豊陣地から才の神の武田勝頼観戦地に向かう途中にありましたが史跡の詳細は不明です。

 

 
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