内藤修理亮昌豊屋敷跡 |
2007年10月28日 |
武田家の譜代家老工藤氏の出身で、もとは工藤源左衛門尉と称した。なお、実名は昌秀が正しい。信玄の側近、奉行として重用され、重要な作戦のほとんどに参加した。永禄6(1563)年ごろ、信濃国深志城(現在の国宝松本城の前身)代となり、永禄末年ごろ、名族内藤家の名跡を継ぎ、修理亮を称した。元亀元(1570)年に、上野国箕輪城代となり、上杉・北条氏の動向を監視する役割を担った。信玄は、昌豊に250騎を預けて、関東方面軍を編成した。天正3(1575)年の長篠の戦いで戦死した。昌豊の家督は、養子の修理亮(後に大和守)昌月(実は保科正俊の子)が相続し、勝頼の側近、奉行として、また箕輪城代としても活躍した。昌月は、武田滅亡後、北条氏に仕え、天正16(1588)年5月25日に箕輪城で死去した。 |
内藤修理亮昌豊
(?〜天正3年5月21日) |