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山梨県甲府市

原隼人佑昌胤屋敷跡

2007年10月28日

信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じされたといわれ、また信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担ったとされる。父昌俊は90騎を率いたが、昌胤は加増されて120騎を指揮していた。天正3(1575)年の長篠の戦いで戦死した。家督は2代目隼人祐昌栄が継ぎ、勝頼の側近、奉行となり、駿河国沼津城の普請を行っている。昌栄は、天正8(1580)年10月、勝頼の上野国東部侵攻に従軍し、膳城(前橋市)攻防戦で重傷を負い、甲府帰還後に死去した。昌栄の跡は、実弟で昌胤の三男で、3代目隼人祐貞胤が継ぎ、武田氏滅亡の際には、真田昌幸を頼って落ち延びたといわれる。
(看板資料より)

原隼人佑昌胤

(?〜天正3年5月21日)
武田軍の陣場奉行を努めた知将
(看板資料より)


原隼人佐昌胤之碑
蓮朝寺

 

 
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