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愛知県新城市

雁望山登り口

2006年05月05日



「強右衛門のろしをあげし雁峰山」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 

雁望山は鳥居強右衛門が狼煙をあげた山です。上の俳句の設楽原古戦場いろはかるた看板資料は丸山砦の北側と、羽柴秀吉陣地の北側にもありました。雁望山登り口と書いてありましたがここから実際に雁望山に登れるのかどうかは分かりませんでした。
鳥居強右衛門天正3(1575)年5月15日午前2時頃に長篠城野牛廓の不浄口(下水口)から豊川に脱出しました。そこから泳いで約4km下流の広瀬の渡で上陸し、15日明け方に雁望山から脱出成功の狼煙をあげました。彼はそのまま岡崎城まで走り、奥平貞能、徳川家康、織田信長に対して長篠城の危機を伝え、援軍の要請をしました。その後一刻も早く長篠城内の味方に朗報を伝えるべくすぐに長篠城に向いました。そして翌16日に再び雁望山から狼煙を3回あげて長篠城内に援軍来る!との知らせを伝えたということです。
実際に狼煙をあげた場所は雁望山の中腹にある涼み松であるという情報や、現地には鳥居強右衛門が自分の幼名を彫った石があるなどの情報があるそうですが、雁峰林道からも現地への案内板がありそうなので、次回は実際に狼煙をあげた場所に行ってみたいと思いました。
考えてみれば鳥居強右衛門は長篠城を脱出して川を約4km泳ぎ下り、そこから走って雁望山まで登って狼煙を上げ、岡崎まで走りまた戻ってくるという、まさに現代のトライアスロンのようなことをしたのですね。

 

 
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