長篠城 |
2013年07月06日 |
長篠城は豊川の上流、寒狭川(滝川)と大野川(三輪川)とが合流する地点の断崖絶壁の上にある。城址は現在愛知県南設楽郡鳳来町字長篠に存し東西およそ327メートル、南北約254メートルある。 |
長篠城本丸跡
磔に散る 烈士鳥居強右衛門 |
本丸にある土塁
内堀跡
野牛曲輪跡
度合
巴曲輪跡
瓢曲輪跡
弾正郭跡
家老屋敷跡
糧庫跡
久邇宮良子女王「御手植の松」
この黒松は、久邇宮良子女王殿下がが大正7(1918)年3月17日、父邦彦王、母俔子妃の3人で設楽原決戦場視察の後、長篠城址を視察し、御台臨記念として植えた松である。当時の記録によれば、3人は城址で桑園になっていた本丸に散在する焼き米を拾い、鳥居強右衛門が脱出した場所に立ち往時を追懐していたとある。良子女王殿下の服装は、この時のお召列車の車掌であった浦野金蔵氏の記録によると「矢がすりの和服」であったという。 |
さかさ桑
長篠の戦の落武者が、寒狭川の中流にある小松集落にさしかかって、民家の庭に杖をつきさした。土地の者はその強力を見てただものではないとおもい、その杖に手をふれなかった。 |
飯田線に破壊されてしまった長篠城
2006年05月05日 |
長篠城には過去何度か来たことがありますが、今回は「長篠合戦のぼりまつり」が行なわれ、そこで火縄銃による実演も行なわれるということでしたので寄ることにしました。今回の史跡めぐりの一番の見所です。当日長篠城で配られていたパンフレットに長篠の戦い史跡めぐりコースというものが紹介されていて、それを見ると実は今までは本丸周辺しか見学していなかったことが分かりました。のぼりまつりのは本丸で行なわれていましたが上の写真のように大きな旗が立てられていて風が吹くたびにきしむ音が印象的でした。織田・徳川側の武将より武田側の武将の旗の方が多く、このお祭りも武田贔屓のような気がしました。 |
5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残留した武田軍の5つの砦を奇襲した。この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が巣方面の火の手と銃声に驚き本隊に戦闘開始を指令した。 |
長篠の戦い経過
1575(天正3)年5月
6・7日 | 武田勝頼、吉田城(豊橋市)に追って小ぜりあい。 |
8日 | 武田勝頼(1万5千)が長篠城(奥平貞昌5百)を囲み攻撃開始。 |
10日 | 大手門付近で戦闘、城兵が門外へ突出。 |
11日 | 豊川対岸の武田軍、筏で野牛郭を攻撃。城兵も多数死傷するが撃退。 |
12日 | 武田軍、本丸西隅に横穴を掘り侵入、城兵は逆襲して退ける。 |
13日 | 武田軍は瓢郭を攻撃。夜、瓢の兵は本丸に引き上げ。大手門方面に武田軍が建てた望楼を城兵が銃撃で破壊。 |
14日 | 武田軍の総攻撃を城兵が死守。鳥居強右衛門が奥平貞昌の命を受けて脱出。 |
15日 | 鳥居強右衛門が岡崎に到着し家康に言上。織田信長も岡崎に到着。 |
16日 | 鳥居強右衛門は武田軍に捕われ、城中へ援軍到来を告げて磔にされる。 |
18日 | 織田・徳川軍、設楽原に到着し、陣地を構築。 |
19日 | 武田軍は軍議。勝頼は諸将の諫言を容れず、設楽原の敵陣攻撃を決定。 |
20日 | 武田本隊は城の包囲を解き設楽原へ。徳川軍酒井隊が鳶が巣方面へ。 |
21日 | 設楽原で激突。勝頼は多くの将士を失い残兵に守られて敗走。 |
(長篠城址史跡保存館パンフレットより)
内堀
現在駐車場になっている帯郭址からJR飯田線の方に向って大きな内堀があります。本丸の規模の割りにはずいぶん大きな堀だと思います。 |
内堀
家老屋敷跡
鳥居強右衛門・呼びかけの所
家老屋敷跡のすぐ横に、上の写真のように電柱に「鳥居強右衛門・呼びかけの所」と書かれたところがありました。多分、鳥居強右衛門が武田軍に捕えられた後、城内に向って援軍の到来を呼びかけた所なのだと思います。鳥居強右衛門が城兵に向って呼びかけたのは豊川の対岸の磔死したところだと思っていたのですが、実はこんな所だったことを知りました。ここから長篠城址史跡保存館まではすぐ近くのところですので、長篠城を攻撃していた武田軍は本丸まであと一歩のところまで長篠城を攻略していたのですね。 |
弾正郭址
本丸のすぐ横に流れている矢沢川を挟んで弾正郭があります。上の写真の所は家老屋敷跡から南に入ったところです。また長篠城本丸の入口から右側の弾正郭の方向に進んで行くと「不忍の滝」という滝があります。城跡に滝があるなんて珍しいですね。 |
不忍の滝
倉屋敷址
倉屋敷址の他にも、糧庫跡、二の丸などの案内板も立っていました。要するに食糧が保存されていた所だったようです。ここも長篠城址史跡保存館の入口のすぐ近くで、既に武田軍に占領されてしまっていたとのことです。 |
物見櫓址
厩址からJR飯田線の小さな踏切を通過して奥に進んで行くと、物見櫓址、井戸、野牛郭を経て豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する度合まで降りて行くことができました。物見櫓は長篠城本丸のすぐ横を走っているJR飯田線のすぐ横にある小さな丘のような所でした。 |
殿井
河岩段丘の砂礫層と岩盤の境から湧き出る泉である。城兵の貴重な飲料水であった。 |
野牛郭址
殿井から更に奥に進んで行くと、野牛郭址があります。豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する所の側にある郭で、急峻な崖に囲まれた長篠城の守りの要の場所といったところでしょうか。武田軍も対岸から筏を使って野牛郭にとりついてここを攻撃しましたが、結局攻略するまでには至りませんでした。 |
豊川(寒狭川)とJR飯田線
長篠城に来たら、豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流地点(度合)を訪れることをお勧めします。対岸の橋の上からの景色もお勧めですが、ここからの景色は最高でした。この日は長篠城のぼりまつりの露店で買ったお好み焼きをここで食べながら景色を楽しみました。下の写真の宇連川(三輪川)では子供達が川で泳いで遊んでいました。水がきれいなのですね。 |
宇連川(三輪川)
長篠城はもちろん長篠・設楽原合戦の舞台になったところです。従来は「長篠の戦い」といわれていたものが最近は長篠・設楽原合戦と言われるようになったのだそうです。織田・徳川連合軍と武田軍が激突した設楽原は長篠城からは少し離れたところにあり、更に少し前までは長篠城は鳳来町、設楽原は新城市にあったというのも関係しているのだと思います。今では市町村合併のため共に新城市となっています。
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2003年10月12日 |
要衝 長篠城址・史跡保存館 長篠城址史跡保存館で次の本を購入しました。 |
小国の悲劇・奥平氏 |
対岸、武田軍5つの砦 |
さかさ桑
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1999年11月23日(火)曇り
長篠城址 |
長篠城本丸
長篠城址 史跡保存館