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愛知県新城市

羽柴秀吉陣地

2014年08月16日


「はたぼこと秀吉陣地の名を伝う」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

信長の本陣茶臼山を軸として、一帯に部将がそれぞれ陣を敷いた。藤吉郎秀吉は時に39才、壮年有為の指揮官として、ひょうたんの馬印しを押し立てて、茶臼山に続く宗国台地に布陣した。
やがて秀吉は馬防柵構築の奉行を務め上げると、今度は側面攻撃隊の指揮官として須長堂座に陣を移した。そして丹羽長秀、柴田勝家らとともに、突進してくる武田軍の馬場右翼隊、内藤中央隊を横合いから激しく攻め立てるのであった。
なお、秀吉が陣を敷いたあたりの宗国を、誰いうとなく「はたぼこ」と呼ぶようになり、400年後の今もその名を言い伝えている。
(かるたでつづる設楽原古戦場より)

 



2003年10月12日



「はたぼこと秀吉陣地の名を伝う」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

設楽原の合戦にはまだ羽柴と名乗っていた後の豊臣秀吉(当時は39才)も参戦している。牛倉というところに「はたぼこ」という地名があり、連合軍の左翼に本陣を据えたようである。秀吉の陣にはまだ元服していない14才の加藤清正も参戦したらしくこの戦が初陣だったとのこと。

 

 
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