ジタジタ峠 |
2015年10月12日 |
天文23(1554)年武田信玄の率いる武田軍は小笠原氏の鈴岡城を攻め落し、その勢いをもって下久堅の文永寺を焼き払い、竜東の雄、諏訪氏の流れの知久頼元の居城神の峯攻略のためここに立った。時に8月中旬頃である。武田の将山本勘助は霧の晴れ間に床山城を眺め、この山城は水を断つことが一番を計略し、眼下の玉川に兵を出し、城兵が水汲みに来たらと待ち受けていたが、5日たち6日たっても1人として城兵は現れなかった。そうこうしていると、ある日の午後、神の峯の出丸篝(かがり)岩の岩頭に兵が集まって馬を洗っている姿が眺められた。実は城兵達は白米を使って馬を洗っているように見せたのを武田軍は水で洗っていると思ったのである。これ程城内には水がたくさんあるのか、それなら今までの兵略は無駄であったかと思い、さすがの智将山本勘助も、ジダジダを踏んで口惜しがったという。そのためこの地をジダジダ峠と称し、草木も育たぬ所となったという。 |
ジタジタ峠から神之峰城
南原の文永寺、小林城を攻略、峠まで来た武田軍の山本勘助は、神之峰床山城を眺め、山城を攻略するには、飲料水を断つ作戦にでたが、かがり岩で馬に水を掛けて洗っている様子を見せられたので、城内には水が豊富にあると勘違いして、さしもの知将勘助のジタジタを踏んで悔しがったということからこの峠をジタジタ峠という。実は馬を洗ったのは水に見せかけた米だったという。ジタジタ峠は下久堅の掘割から、大鹿集落に通じる旧道の300メートルあまり入った道沿いの小高い平地にある。
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2007年04月29日 |
天文23(1554)年武田信玄の率いる武田軍は小笠原氏の鈴岡城を攻め落し、その勢いをもって下久堅の文永寺を焼き払い、竜東の雄、諏訪氏の流れの知久頼元の居城神の峯攻略のためここに立った。時に8月中旬頃である。武田の将山本勘助は霧の晴れ間に床山城を眺め、この山城は水を断つことが一番を計略し、眼下の玉川に兵を出し、城兵が水汲みに来たらと待ち受けていたが、5日たち6日たっても1人として城兵は現れなかった。そうこうしていると、ある日の午後、神の峯の出丸篝(かがり)岩の岩頭に兵が集まって馬を洗っている姿が眺められた。実は城兵達は白米を使って馬を洗っているように見せたのを武田軍は水で洗っていると思ったのである。これ程城内には水がたくさんあるのか、それなら今までの兵略は無駄であったかと思い、さすがの智将山本勘助も、ジダジダを踏んで口惜しがったという。そのためこの地をジダジダ峠と称し、草木も育たぬ所となったという。 |
事前に場所を調査のうえ、現地に向かいましたがなかなかそれらしい場所を見つけることができませんでした。既に時間も遅くなっていてあまり余裕が無かったので聞いてみようと思ったのですがなかなか家が見つからずに苦労しました。やっと見つけたお宅でジタジタ峠について聞いてみたところ、彼は場所を知っているようでした。私が来てしまった道路よりもう1本北側にある国道の方に行かないと行けないようでした。そこから直接林道があるとのことでしたが狭くてわかりづらいとのことでした。しかし親切に教えてくれました。わからなくなったら左のほうに行くべし!とのことでそのうち国道(秋葉街道)に出るとのことでした。ジタジタ峠は掘割というところにあるとのことでした。林道は確かに狭い道で木の枝がバリバリと車に当たりました。途中道に迷いながらもなんとか国道に出ることができました。しかし付近には何もなく、しかたなく山の方に上っていってみました。すると案内地図があったので見るために車を止めたらちょうどそこが掘割のバス停で、反対側にはジタジタ峠入口と書かれた棒杭がありました。ここを入っていくに違いない!と確信して登っていきました。するとしばらくしてすぐにジタジタ峠とかかれた棒杭を見つけたのでそこで車を止めてあとは歩いて上に登ってみました。 |
ジタジタ峠から神之峰城
南原の文永寺、小林城を攻略、峠まで来た武田軍の山本勘助は、神之峰床山城を眺め、山城を攻略するには、飲料水を断つ作戦にでたが、かがり岩で馬に水を掛けて洗っている様子を見せられたので、城内には水が豊富にあると勘違いして、さしもの知将勘助のジタジタを踏んで悔しがったということからこの峠をジタジタ峠という。実は馬を洗ったのは水に見せかけた米だったという。ジタジタ峠は下久堅の掘割から、大鹿集落に通じる旧道の300メートルあまり入った道沿いの小高い平地にある。
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